小笠原和幸『春秋雑記』(2000年)
あたらしき畳の上は何もなくしづかに冬の光をまねく
児童数減りし校舎を逆さまに映して夕の水田しづまる
一団がしだいに細き線となる秋のゆく日の町民マラソン
静かな作品だ。しかし、対象を正しく描写していく小笠原和幸の確かさはまぎれもない。正しく。そう、世界は正しく描写されていく。
風邪引きて一日(ひとひ)こやればこの部屋に夕陽まともに射すときがあり
道側に高き垣根をめぐらする話をしつつ夕餉を終ふる
新しき時計を壁に掛くるとき古き時計に時間を合はす
存在のごとく静謐はそこにありビル建設の音止みしとき
人の世に靴の修理をなりはひとしてゐし叔父も鬼籍に入りぬ
冷え冷えとする夜の居間を通るとき見たまぼろしを団欒といふ
階段を昇り来る人頭より順にあらはれ今日春の靴
海を見て海の話をすることをひとときやめてくちづけをする
一年が誤解の解けぬまま過ぎてまた柿の木に柿の実が生る
不思議な、しかしなんだか心地いい感覚。読者はそんな感覚に包まれていく。日常には、多くの違和感がある。違和感は、時間を一瞬止める。とはいえ、違和感に気づかないことも多い。気づいたとしても、時間が止まったことに気づかなかったり。日常とは、そうしたものだと思う。
不思議な、しかしなんだか心地いい感覚。彼は、気づいている。
玄関にセールスマンが立ちしときたちまち対する外部と内部
玄関にセールスマンが立ったとき、たちまち外部/内部という関係が生じた。とてもわかりやすい一首だ。いや、ほんとうにそうか。
「たちまち対する外部と内部」。何の外部と内部なのか。むろん、家のそれであろう。とはいえ、単に物理的存在としての家ではない。〈私〉の身体の一部、もしくはその拡張されたものとしての家。つまり、時間や関係が積み重ねられた家。セールスマンは遠いところからやってきて、外部と内部を生み出し、もしかしたら〈私〉と入れ替わって、再び遠いところへ帰っていく。しかし、そこに〈私〉は残っている。
小笠原は、日常のなかに折り畳まれているいくつもの層の、あるひとつを描き出そうとしているのだと思う。そして、その層に関わる主体の、いわば宿命のようなものが炙り出されていく。