吉野 裕之


紙ヒコーキが日に日に紙にもどりゆく乾ける落葉だまりの上に

花山多佳子『春疾風』(2002年)

 

花山多佳子の作品はとても不思議だ。でも、とても心地いい。

 

桜もみぢの下に置きたる自転車に遠ざかりつつ別れのごとし

むすめのくしやみは猫のくしやみに似てゐるとふり向くときに量感のあり

プランターの土のおもてに球根がせり上がりくる嘆きながらに

生き別れせし子がどこかにゐるやうに日傘をさして陸橋わたる

掘り出された仏像のやうな教師なり昇降口にあいさつかはす

落ちたるを拾はむとして鉛筆は人間のやうな感じがしたり

 

花山は、日常を詠む。日常というものの表情をていねいに拾い上げていく。日常には、たくさんの隙間や襞がある。しかし、私たちはあまり隙間や襞を見ようとはしない。合理的に、効率よくものごとを進めていくためには、こうした隙間や襞に関心をもたないほうがいいし、隙間や襞にはなにが潜んでいるかわからないから、やはり関心をもたないほうが無難なのだ。

花山は、日常を詠む。そう、その隙間や襞に視線を投げる。そこには、秩序や常識といったものに取り囲まれる以前の、私がいる。そして、日常というものがどのように成立しているのかを教えてくれる。

 

紙ヒコーキが日に日に紙にもどりゆく乾ける落葉だまりの上に

 

乾いた落葉だまりの上に誰かがそのまま置いていったのだろう紙ヒコーキが、日に日に紙に戻っていく。意味を理解する上で、難しいところはない。三句切れ倒置法のわかりやすい構成の一首だ。

「紙ヒコーキが日に日に紙にもどりゆく」。〈私〉は、毎日この紙ヒコーキを見ているのだ。そう、毎日。少しずつ少しずつ紙に戻っていくのだろう、乾いた落葉だまりの上で。「紙ヒコーキが(…)紙にもどりゆく」という把握は、なんでもないようでいて、巧みだ。なんだか、生あるものが生を失ったあと、少しずつ少しずつ消えていくようなイメージが重なってくる。

花山は、日常を詠む。日常が恐ろしいことを教えてくれる。