佐佐木幸綱『ムーンウォーク』(2011年)
花束を受け取る人と渡す人いま交差する人生ふたつ
だれも死ぬ日を知らず人は壁に向き入金しゆくスイカを挿して
虫の音が空気全体を包み込む河原を走る朝の人体
健軍町行き路面電車がきて停まる秋のあしたの石橋のそば
あっ、朝の光ふふふと流れ込み元旦の卓に家族が揃う
丸い時計がいつしか消えし地下街に昔のままのチューリップ買う
春一番に花びら少し散らされて今年の梅のまだまだ若い
しゃべりつつ言葉を選ぶ立ち止まりムーンウォークをする感じにて
揺れ方も日の射す影も大らかに見覚えのある犀の尻なり
橋を来る白猫に会いぬ橋を渡る猫をはじめて見たりと思う
佐佐木幸綱の作品は、瑞々しく力強い韻律が魅力。推敲の跡を感じさせないスマートなありようも、さわやかだ。
健やかな生活者の日常的なさまざまな思いが、こうした韻律を支えているのだと思う。思いとは、出会うさまざまなものやこととやりとりしながら、ふっと感受した、ことばにしなければすぐに消えてしまうであろう何か。さりげない、けれど細やかな心配りで、佐佐木はそれを一首に収めていく。
そして佐佐木は、時間というものを知っている。時間が私たちを育んでくれることを知っている。だから、時間を器として一首を組み立てていく。
夕光(ゆうかげ)の揺れる縁側 父がいて父のフォークが柿を刺したり
5・7・5・7・7。いわゆる定型に寄り添いながら、穏やかな韻律の一首。そして、まさしく時間というものを知っている人の一首だ。
夕方という時間。秋という時間。父がいた時間。これらの時間に向き合いながら、引き受けながら、人生の晩秋という時間に身を置いている、そんな〈私〉。「夕光(ゆうかげ)」と「柿」の色の響き合いも美しい。
「父がいて父のフォークが柿を刺したり」。父が柿を刺すのではない。父のフォークが柿を刺すのだ。クローズアップされたフォークが、風景を動かないものにする。動かない風景。それは、父、そしてこの世のすべてのものを、敬意をもって受け止めようという意志であろう。その意志は、過去と現在と未来を繋ぐ大きさをもっている。この大きさこそが、韻律を瑞々しく力強いものにしているのだと思う。