夕ぐれは肉のもなかに盛んなる肉屋の指をかいまみるかな

河野愛子『魚文光』(1972年)

 

河野愛子は、1922年の今日10月8日に生まれ、1989年の8月9日に66歳で死去した。河野は「こうの」と読む。「かわの」ではない。

 

夕暮れである。肉屋へ来た〈わたし〉が、ガラスの陳列棚ごしに店内を見るともなく見やると、白衣姿の男が肉を切っている。大きなまな板の上にどさりと置いた肉塊を、切れ味のよさそうな包丁で、さかんに切りわけてゆく。きびきびと無駄なく動く手、その指。晩御飯が近いこのたそがれどき、生肉のめぐりは一日のなかでもっとも息づいている。

 

〈夕ぐれは/肉のもなかに/盛んなる/肉屋の指を/かいまみるかな〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。夕暮れには、肉のただなかに盛んな肉屋の指を〈わたし〉はかいまみることだなあ。歌意は、初句から読みくだす通りだ。むずかしいことばは何一つ使われていない。それでいて、「肉のもなかに」「盛んなる」「肉屋の指」「かいまみる」というフレーズが連なると、そこには官能の匂いがただよいはじめる。河野愛子マジックとでも呼ぶべき技だ。何の変哲もない肉屋の作業を、肉のもなかにある指、とことばで捉える技。それに続くフレーズを、軽くスケッチしたふうに見せつつ、的確に選んでゆく技。

 

「肉のもなかに」ある「指」という言い方は、性愛の場面を呼びこむだろう。「盛んなる」性愛の場面、それをひそかに「かいまみる」〈わたし〉。ことばの一義的な意味として、作者は性愛のことなどちっともいっていないが、歌のこころは肉屋の店頭風景にではなく、二義的な意味の方にあるだろう。そのように読みたい。

 

この「指」は、つぎの歌を思いおこさせる。

 

手套にさしいれてをりDebussyの半音にふれて生のままのゆび    河野美砂子『無言歌』

*「手套」に「てぶくろ」、「生」に「なま」のルビ

 

同じく「こうの」と読む「河野」姓の作者、河野美砂子の指の歌だ。ドビュッシーの半音に触れて生のままの指。どきどきするほどすてきな指だ。それが、手袋のなかにある。格好よさの極まったこの一首は、淫靡なところへ落ちてゆく前触れのような指を描くという観点において、河野愛子の一首と通じあう。

 

なお、河野愛子作品の初句は、「夕ぐれには」の省略表現であり、「夕ぐれ」は歌の主語ではない。「かいまみる」のは〈わたし〉だ。初句に「夕ぐれは」を使う型の歌は、前川佐美雄〈夕ぐれは街のひびきが縞なして水へと澄みゆけば秋の奈良なる〉(『大和』)、加藤治郎〈あけがたは果汁のしみた雲をみるあなたの髪に顎をうずめて〉(『昏睡のパラダイス』)など数多い。

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