ふるさとで日ごとに出遭う夕まぐれ林のなかに縄梯子垂る

吉川宏志『夜光』(2000年)

 

「背を向けてサマーセーター着るきみが着痩せしてゆくまでを見ていつ」「半顔に太陽浴びて行くときを避妊具のごと朝顔しずか」「春の夜に妻の手品を見ていたり百円硬貨がしろじろと跳ぶ」といった作品を収める『青蝉』(1995年)から5年、吉川宏志の2冊目の歌集『夜光』は上梓された。

 

あみだくじ描(か)かれし路地にあゆみ入る旅の土産の葡萄を提げて

洪水の夢から昼にめざめれば家じゅうの壜まっすぐに立つ

あさがおに藍色の張り残りいる曇り日を来て薬をもらう

 

巻頭近くのページを繰っただけでも、たとえばこうした佳作と出会うことができる。世界は、豊かだ。

吉川は、ていねいに向き合う。自然体で、しかしことばを研ぎ、世界を捉えていく。

 

陰暦の八月みたいにずれている二十五歳の父であること

あさがおはすずしき肺のごとく咲く六ヶ所村を異境に置きて

むんむんと二階がふくれてゆくような春雷の夜にふとん敷く妻

 

比喩は、吉川の大きな武器だろう。「陰暦の八月」「すずしき肺」「二階がふくれてゆく」。これらから喚起されるイメージはけっして直接的ではない。微妙なニュアンスを折りたたみながら、もの/ことの本質を掴んでいる。

 

ふるさとで日ごとに出遭う夕まぐれ林のなかに縄梯子垂る

 

吉川のふるさとは宮崎。帰省したふるさとの夕まぐれ。一日が終わろうとしている林に縄梯子が垂れている。こどもが遊びで使ったのだろうか、あるいは何かの作業のために掛けたのかもしれない。そこには、おそらく誰もいない。薄暗くなった林のなかに、ただ縄梯子だけが垂れている。印象的な光景だ。

「ふるさとで日ごとに出遭う夕まぐれ」。「日ごとに」とは、毎日ということ。ふるさとで夕まぐれに毎日出遭う。それは、どういうありようなのだろう。

一冊には、「頭(づ)のなかで石の割れたる感じして子の頬を撲つ飯食べぬ子を」「鳳仙花の種で子どもを遊ばせて父はさびしい庭でしかない」「にがごりを煮る夕べかなふるさとでもう勉強をすることはない」「読んでいるページをいじる幼な子の指は見えずき学生の日に」といった作品も収められている。揺れやとまどい。こうした感情が、この一首のベースとなっているのだろう。

はじめて読んだのは10数年前だが、なんだかもっと昔から知っていたような気がする、そんな一首である。

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