吉野 裕之


石臼は石となりつつ 庭の上に白く光れり時雨のときは

藤井常世『文月』(2004年)

 

こんこんと眠れるものをよびかへすなかれ 文月 雨の深闇

 

文月は旧暦7月。新暦では7月下旬から9月上旬ごろに当たる。それぞれの月に、それぞれの闇がある。それぞれの闇は、それぞれの表情をもってやってくる。ただ、文月の闇は、私たちのなかに深くやってくる。

 

かたちよりかをりよりなほことばもて水蜜桃といふなつかしさ

母よははよいづくへゆきし 立ちかへる春の朝に目覚めて探す

ひとすぢの風あればわれとともにそよぐ母が遺しし帯の秋草

一夜さのあらしに梢(うれ)を離れしは木の葉鳥の子逡巡の月

捨てしにはあらねど何もかもとほく ほたる来(こ)ほたる、と呼びて夏昏る

 

藤井常世は、ことばととても親しい。ことばは単なる道具ではない。藤井は、ことばに意志があることを知っている。そう、ことばもやってくる。一首は、ことばの意志に沿って立っている。

 

石臼は石となりつつ 庭の上に白く光れり時雨のときは

 

そうか、風景もやってくるのだ。「石臼は石となりつつ」。印象的なフレーズだ。石臼が石に返っていく。機能を捨て、その本来のかたちに返っていく。「つつ」が、いいなあ、と思う。「白く光れり時雨のときは」。秋も深まった、あるいは冬のはじめの、そんな季節のなか、白く光る存在に返っていく石臼。「いま・ここ」の出来事なのだけれど、「いま・ここ」ではない、なんだか遠くの時間=場所からやってきたような風景。

「庭の上に」。この5音が一首の要だと思う。「庭に」ではなく「庭の上に」。この描写が、白く光る石臼/石を確かなものにしている。

雨の日の庭は、その時空のありようが変わるのだ。だから、やってくる風景があるのだし、ときに「いま・ここ」の風景が連れ去られることもあるのだろう。「いま・ここ」にいる私たちも。