ふうふうと父ふくらますならねどもふうふうとその手をあたたむる

小島ゆかり『純白光』(2013)

 

『純白光』は一日一首、日付と詞書を添えて詠まれた一冊である。この歌は2012年12月17日の歌。「父もたぶん、このまま年を越せるだろう。」と詞書がついている。日々の暮らしの中で小島ゆかりの心を最大に占めていたのは認知症を患っていた実父のことであろう。

 

この一首はあたたかな感じもするけれど、父は娘になされるまま無表情に座っているのかもしれない。「父ふくらますならねども」のところ、父が中身の抜けた風船のようで哀しい。ごっそりと記憶や多くのものを失くしてしまった父に温かい何かを送り込むようにふうふうとあたため続けている。

 

幸い私の両親は今は元気だが、何年も父に触れたことのない自分を思う。父と娘の距離は、介護が始まることによって急に近づくのだろうか。

そして、今年の「現代短歌」二月号に載っている小島ゆかりの20首「石鹸」を詠んで父が亡くなったことを知った。

 

壇上で〈旅のうた〉語る刻々も父のいのちの終はり近づく

洗面台で泣けば石鹸のにほひせり父もう覚めぬ冬の病室

昏睡のまへの最後のまなざしにわれを見しこと ありがたう父よ

 

父の命が危険な状態のなか宮崎で講演をし、とんぼ返りで臨終にかけつけ、看取った一連である。三首目の「ありがたう」が印象的である。小島の父の死は「ふうふうと」の歌から約1年後のこととなる。

 

最近、佐伯一麦の『還れぬ家』を読んだが、認知症の父を介護し看取る私小説だった。認知症が進んでいく父の描写と、それに狼狽する作者の様子がとてもリアルに書かれていて、これを読むと小島ゆかりの父の病状と重なる所があった。哀しい、辛いだけでは表現にならない現状がそこにあった。