四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如しゆれ来る如し

窪田空穂『清明の節』(1968年)

 

1877(明治10)年6月8日生まれの窪田空穂は、1967(昭和42)年4月12日に亡くなった。満年齢では90歳にわずかに足りないが、「世の不思議見しがごとくに若き人数へ年九十の年賀を述ぶる」(『去年の雪』)とうたうように空穂も周囲も、数えではあるが、90歳を超えたという意識だったようだ。

その最晩年、遺歌集『清明の節』に「四月八日」の題で収められた二首のうちの一首目が、この歌である。4月8日に作ったということだろうか。ちょうど47年前のことだ。もう一首は、次の歌。

 

まつはただ意志あるのみの今日なれど眼つぶればまぶたの重し

 

4月7日、空穂は自宅に病のために伏せっていた。春の午後の日は、病床の空穂のもとにもまぶしく広やかに及んできた。その光のなかにわが身は、「ゆれゆく如くゆれ来る如し」というように、意識と無意識のはざまを揺れる。まるであの世とこの世の間を漂うごとき感覚を表現したのであろう。最期の時をむかえようとする空穂の意識は、かくのごとく明晰であった。

そして、「まつはただ」の歌、死を目前に頼るはただおのれの生きる意志だけの今日だが、目を閉じればその目蓋が重たく感じられる。生への意志とどうしようもなく訪れる死の前に空穂は、このように歌った。

そして、その四日後の死であった。

窪田空穂は、90歳におよぶ長い生涯に多くの仕事を成し遂げた。23冊の歌集、そして古典学者として『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』の評釈があることを確認しておきたい。斎藤茂吉にも柿本人麻呂にかんする大部の著作があり、釈迢空(折口信夫)が古典文学の有数な研究者であったことは、今更言うまでもないだろう。近代歌人の実作の背後にこうした古典への深い理解があったことを忘れてはならないだろう。日本語表現の新たな展開を考えるためには、古典の理解は欠かせない。とりわけ短歌表現においては古典を無視し続けることはできないだろう。