前田康子


夕映えに見つめられつつ手首という首をつめたき水に浸せり

 内山晶太『窓、その他』(2012)

 

儚さと静けさを感じる一首だ。上の句では、夕映えというのは普通はこちらが見るものであるが、「夕映えに見つめられつつ」という設定により夕映えとの距離が近く、とても濃いイメージとなる。下句では「手首という首」という所がおもしろく、普段そんなに意識しない、手首という身体の部分をあらためて意識する。「手首という首」といわれることにより「手首」が肉体をつなぐ危うい場所のように認識される。それを水に浸している動作はよくあるのだろうが、背景に夕映えがあることにより詩的な場面となっている。

この歌集では身体の部分をモチーフに詠んだ歌に魅力を感じた。

 

目に蓋のある人体のかなしさを乗せしみじみと終電車ゆく

麒麟二匹やさしかりけり中空(なかぞら)にひとつひとつの脳を捧げて

一日中眼を開けながら仕事してつめたいパンの袋をひらく

 

一首目は終電に乗って寝ているひとを見て詠んでいるのだろう。瞼は「目蓋」とも書くが、「目に蓋のある人体の」と広げて表現されると人間の体には「蓋」があるのだと、少しメカニックな方にイメージが動く。それを閉じることにより眠って身体を休めたり、見たくないものを、見ずにすむのだ。蓋は閉ざすというイメージにつながり、そのメカニックな感じがかなしさへつながる。

二首目の「麒麟」は動物のキリンを想像した。首の長い二匹のキリンを見ているとき作者は中空の高さに浮かぶ二つの脳を思ったのだ。そんな高いところに脳があることが一つの発見であり、何かここにも肉体の危うさを感じる。

三首目は、労働の歌であるが、とても乾いた感じで表されていて、特に「一日中眼を開けながら」という部分にただ事歌的な面白さを感じつつ、それを越えた虚無感がある。下句は冷え切ったパンということであろうか。食事自体にも喜びを感じず一日を終えている現代のある典型的な人間が見えるといえば言い過ぎであろうか。

このようにたどっていくと歌集全体に、作者は孤独であり、さびしさやかなしさを詠みつつも、そこに激情はなくどこまでも渇いている。

 

クスクスは衣類の味がするということよみがえり遮断機の前

椿のはなの芯をほぐして振りかけて人の夫となりて飯食う

 

一首目のクスクスは粒状のパスタのようなものだが、それが「衣類の味」だという。どちらかというとおいしくない方の種類の味として表している。食べられない物を食べ物の味として表しているところ、それを何気ない場面で思い出しているところに不思議なリアリティがある。

二首目は結婚したという作者の情報が下句に入っているが、淡々と表していて喜びのような感情は消されている。それよりも上句のふりかけのことを作者は細かく表している。そこの部分の拘りが下の句と結びつく時へんなズレができている。このズレの辺りに作者の面白さがあるのではないだろうか。