髪切虫籠に鳴かせて少年の日を脱けんとす我も我が子も

 『壜と思慕』千々和久幸(1981)

 

わが家にはまだ虫捕り網がある。息子が虫捕りをしていたのは小学生くらいまでだろうか。ヘビトンボという変わった虫を見つけて、ぞろぞろ近所の子が見に来たこともある。その後、マンションでゴキブリが出るとなぜか呼ばれて退治に行っていた。虫捕り網はそのためにまだ置いてある。

この歌、髪切虫のキイキイと鳴く声が聞こえてきそうである。我が子はもう虫捕りも卒業する年齢なのだろうか。そして「我も」とあるのは作者のことであるが、作者は息子と一緒に虫捕りをしながら二度目の少年期を辿った。それも息子と一緒に終わろうとしていることを感じている。子どもを育てることにより、自分の少年期や少女期を再び辿れるということはとても意味のあることではないだろうかとこの歌を読みながら思った。

 

我が触れし芒に後の子も触れて一つ思いを分ち持つべし

子をいたく叱り朝を出で来しに明るきガラスわが身をめぐる

 

子を読んだ歌にはこのような歌もある。一首目、芒の原を子と歩いているのだろうか。自分が触れた芒に後ろからついて来る子も同じように触れている。それが何も言わなくても同じ思いのなかにいるように感じている。子の心に静かに寄り添う作者が見える。二首目は朝から子を叱る事があった。その朝、町を行く作者にガラスの光が反射している。「明るき」と言っているが眩しいような痛いような光が作者を包んだのではないだろうか。

 

回転ドア押さるる方へ春は逝き壜の内側うす曇りいる

夏の蜘蛛逆しまにガラスの内を這い別れんために夕昏れはある

連絡がつかず戻れば夏の陽は壜にはげしく照りかえりいる

 

また、歌集のタイトルにもある「壜」は作者の歌のモチーフの一つである。一首目は上の句がまず魅力的だ。ゆっくりと回っていく回転扉、その回っていく方へ春が去っていった。詩的な表現がある。そういった季節の大きな動きと下の句の小さな壜の中の世界がうまく呼応している。二首目は上の句は「逆しま」にと具体的に表しつつ、上の句にも下の句にも象徴的なイメージがある。特に下の句は格好いいフレーズだ。

三首目は夏の日の悔しさのようなものが壜の光の照り返しに滲み出ていて、インパクトがある。壜といえば葛原妙子の「晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて」を思い出すが、この三首の歌は作者の生活の場面が見えつつ季節が象徴的にある。どの季節にも切なさが感じられる。そして壜の質感が読後に余情となって残っている。