父の待つ昼餉に向かう父の中の母と話をしたくなる日は

渡辺 良『日のかなた』(2014)

 

不思議な余韻を残す歌である。母はもう亡くなってしまっているのだろう。だが、母は父の記憶のなかにいて、父がいつでも思い出として語ってくれる。母に会いたくなるときは父に会いに行き、昼餉をともにするのだ。父が生きている限り、亡き母はそのなかに生きていていつでも会うことができる、安心感のようなものが読後にひろがる。

 

母のなかに居りたるわれはいずくにて今宵の雪を聴いているかな

 

このような歌もある。亡くなった母、その母の記憶の中の自分は、いまどこにいて降る雪の音を聴いているのかという歌。母のなかにいる自分は幼い頃の自分であろうか。この世にもう一人自分が存在するような不思議な一首だ。

 

往診の礼にと言いて孵りたる籠いっぱいのちさきスズムシ

座布団を炬燵のなかに暖めて待っている老い診にゆくわれは

酒精綿に指さきぬぐうもう冬か風びんびんと車窓をたたく

朔風が海の嗄声を運びくる 隙間医療と呼ばれたるかな

doctor の意味のひとつに「修繕屋」ありてみぞれの夜となりたり

 

この歌集には「臨床と詩学」という副題がついていて、あとがきによると作者は町の開業医として日々働いている。この歌集にもその現場の歌や医師として「死」を見つめた歌が多くある。

一首目は往診している時の歌。往診したお礼にと、卵から孵った小さなスズムシをたくさんもらった。患者さんとのほほえましい関係が見えて来る。また二首目では往診に行く先の患者さんが、寒さのなか来る作者のために、座布団を炬燵のなかで暖めて待ってくれているという。ここにも人と人とのあたたかな結びつきというものを感じさせる。

3首目の「酒精綿」はアルコールの消毒綿のことで、医師としての現場での指先が見えて来る。ひんやりと消毒した指先が冷たく冬が来たのを感じている。下句は往診中の車中から見ているのかもしれない。

また4首目では北風が吹く海を感じながら、作者は「隙間医療」という言葉について考えている。「隙間医療」とは文字通り、現代の医療の手薄になっている部分に手を差し伸べて医療を行うということだろうか。正しい定義を私は知らないが、作者の従事している部分がそう呼ばれているのだろうか。また5首目は「doctor」という言葉の本来の意味について考えている。医師や博士といった意味の他に「修繕屋」という意味があるという。何かを専門的な知識をもってなおす人という点では「修繕屋」というのはよくわかる。こういった言葉に対して作者は何を感じているかは歌のなかでは表していない。提示するだけに留めているだけだが、どちらも印象的で、考えさせられるところがある。

 

落ちてしまった消しゴムをずっと思ってる時間さびしい机のように

どうしても観覧車が動いている様に見えない春の疲れであろう

冬のひと日失くしたるもの土色の襟巻きとその巻かれいし首

 

こういった静かな歌にもそれぞれ作者の世界がある。日常のなかで、知らず知らずのうちに失って行くものの哀しみが歌のなかにあり、浜田到の歌に似たものを感じた。