岡部文夫『氷見』(1992年)
前回につづける。歌集『氷見』の「桑の院鉱泉」の章から。能登境、で三句切れ。「藺」は、「い」と読む。「植え並めて」は、「並」に「な」とルビがあって「うえなめて」と読む。これは、求めて閑寂境にあるのではなくて、煙草の専売公社の仕事で寒村を通り過ぎて行くうちに出会った光景のひとつなのだろう。どの歌にもそんな気配がある。本書は、昭和二十九年に出す予定だった本を、長く原稿を預かってきた田中譲が、作者の死後、二十二冊目の歌集として出版したという経緯を持つ。いま読むと六十年以上前のタイムカプセルを開けたような気がする。当初は知人のもとめに応じて、氷見の観光名所を集めた歌集を作るという企画だったようだが、まとまった一冊は、そんな地域の人の求めに応じたというような意図をはるかに超えたものとなっている。
布勢の海の雨久花の花のむらさきをあふるるばかり少女だきたり (十三谷)
この歌は、日本海を背にして花を抱えて山道をのぼって来る少女の姿が美しい。
笹山の遠のはたてに曇りつつ鑢の如き海が見えけり (神代温泉)
鑢(やすり)のごとき、という比喩がきいている。海の歌は、いいものが後からあとから出て来る。
冬の浪暗き砂浜をくる人は青き杉苗を背負ひたりみな (阿尾城趾)
曇り低き雪の渚に人群れて氷見牛を糶るその氷見牛を (同)
右の二首めは、競(せ)り市で牛をせっているのである。どれも高度経済成長以前の寒村の労働風景である。働く人びとの描写に侵しがたい気品と重々しさがあるところが魅力的で、読んでいるうちに質のいい映画を見ているのと同様の陶酔感が得られる。「氷見牛を」の繰り返しは、農家の人たちがその牛を一頭育てるのにどれだけ苦労し手間をかけているかを知っているから高潮しているのだろう。涙ぐましいのである。
おぼおぼに黄昏となる朴のした綿のごとくに綿羊をりき (灘浦)
くろぐろと泉にしづむ落葉らをこころこほしく吾がみたるかも (飯久保城趾)
この本に付いている年譜によると、岡部文夫は明治四十一年生まれ。平成二年に八十二歳で没している。羽咋中学からいまの二松學舍の前身にあたる専門学校に入学した。昭和二年、十九歳の時に坪野哲久に兄事したと年譜にある。昭和五年の第一歌集『どん底の叫び』は発禁。つづく『鑿岩夫』も発禁。二松學舍は中退。青年時代にプロレタリア文学運動にかかわった歌人である。そこから出発して苦闘し、その後の思想的な屈折を経ながら言語的な修練を重ね、独自の世界を構築するに至ったところなど、岡部文夫の履歴には、坪野哲久と相似的なところがある。(この項おわり)