さいかち 真


 遠見ゆる白鳥三百ふつふつと流れ地上に白き波立つ

安部洋子『西方の海』(2011年)

作者は松江市内に住む。西方の海とは、宍道湖のこと。「遠見ゆる」は、「とおみゆる」と読んで遠くにみえるの意。五七調の歌で、「遠見ゆる白鳥三百」で句切れ。三、四句が「ふつふつと」「流れ地上に」と句またがりで、「ふつふつと流れ地上に」と続けることによって五、七になる。白鳥の群れは地上に降り立って、さかんに動いているのである。それが遠目には「ふつふつと」頭や翼らしい影が幾重にも交錯して、折り重なりながら白い波のように見えるというのである。

 

遠見ゆる 白鳥三百 (五・七)

ふつふつと 流れ、地上に (五・七)

白き波立つ (七)

 

こういう工夫をこらしても誰が読んでくれるわけでもないかもしれないが、作者は後記に「歌への執着は加齢と共にはげしくなってきたように思える。」と記す。つつましい地味な自然詠と心象詠の集成のように見えながら、随所に微光を放つような作品がちりばめられている。

 

日常の埒の外なる感情の湧きて抱きたし白鳥の首

一片の雲かと渡れる鳥群れの不意に下降す黒くしたたりて

 

白鳥に思いを託し、湖に思いを託して何十年も歌いつづけて来た。その結果の一人の作者の円熟のかたちをこの歌集に見ることができる。伸び伸びと自然体であり、滞る所がない作品は、読み手のこころに安らぎをもたらす。

 

しろしろと湖心に向かう夕潮の深くくぼめるひとところ見ゆ

湖に潮入りゆくさわだちの光を畳むごとき夕ぐれ

湖は雲のかたちに暮れ残りわれは歩み出す明るき方へ

 

三首それぞれ異なる章から湖の歌を抜き出してみた。二首目の「潮」は「うしお」と読んだ方がリズムが合う。一首めと二首目は、くっつけてみた時にどういう情景を詠んだものなのか、よりはっきりと知ることができた。これは夕暮れの満潮の時刻になると、宍道湖に多量の海水が一度に寄せてきて盛り上がるようすを描いたものなのだ。作者は、折々にその時刻の湖を見に行くわけなのだろう。二首目の「光を畳むごとき」というのは、潮が寄せてきた湖の随所において、波が盛り上がってから崩れるときに、その影が黒く色を変えて、波頭にあった光を打ち消すさまを言ったものである。三首目は実景でありながら、結句の「明るき方へ」が、ごく普通に何かを肯定して生きるよろこびにつながっている気がする。

 

遠白き湖より近づくバスを待つ身に黴のごと雪をまといて

みずからの身より落とせるいくひらの羽毛を踏みて黒き足ゆく

中空を鳴きわたるもの過ぎてよりとり残されぬ透明の野に

 

歌集のおわりの方の「烏瓜」の章より三首続けて引いた。二首目の「黒き足」は自分の足のことだ。自分の身に付いた雪は、白い黴のようなのだ。そのような自己客観視というものが、常に身に添うているために作者の歌は甘くならない。そういう作者が現実に陶酔を覚えるのは、野鳥の姿に接する時なのだろう。そうした生の場面の中心に湖がある。だから、この湖は作者の人生の象徴ともなり得るものなのだ。