さいかち 真


冬の夜は風雪炎のあそびあり飼いならすべし死もまたあそび

坪野哲久『胡蝶夢』(1974年)

 「冬の夜は」の章から、「風雪炎」と題する十三首中の一首。「風雪炎」は、「ふうせつえん」と音読みする。二行に分かち書きすると、

 

冬の夜は風雪炎のあそびあり。

飼いならすべし 死もまたあそび

 

と、こんなふうになるか。こうして書いてみて気がつくことは、「冬」と「風雪」の「ふ」の語音が頭韻で響いていることである。そうして、「べし」の「し」と「死」の「し」という語音が、尻取り式につながりながら響いていることである。意識してやったのではなく、自然とそうなっているのだろう。ここで「飼いならすべし」と言っている作者は、心臓の具合が時々わるくなるらしい。集中にはそういう歌がある。飼いならす、というのは、死についての想念と向き合うということである。なかなか人は、こうは言えないものであるが…。

 

明治三十九年生れのわが(からだ)ぼろぼろとなる()よまたたくま

老の文字つかわじとして怒りたる一夜(ひとよ)の歌のみだれみだれて

 

歌集刊行年が1974年。明治三十九年生れの当時七十歳前後というのは、現代の七十歳とはちがう。「一夜の歌のみだれみだれて」。作者は、必死に抗っているのである。安穏と「老い」に安住しつつ、自己の年齢や老いの様相を歌うということを拒んでいるのである。

 

こころどのゆれあるかぎり生きおりとさびしきことに頷くわれは

 

「こころど」は、「心処」。こころのある場所のこと。気持ちが動くかぎり人間は生きているのだ、と思う。そう思ってから、そんなことを思う自分の考えの動き方をさびしく感じて、そのはかなさを噛みしめる。「こころどのゆれあるかぎり」。いい言葉だと思う。

この歌は、前にある次の歌とセットになっている。

 

青みたつ冬の眉月いくそたび見しやうつつの胸ゆらぎする

 

「眉月」は「まよづき」と読み、「胸ゆらぎ」を「むなゆらぎ」と読んでみたい。「いくそたび見しや」は、何度見ただろうか、の意。坪野哲久の歌は、うたの言葉がひとつひとつ、雪の上に枕木のかたまりを投げ出すように、ぼこんぼこんと置かれているところに味がある。でも「青みたつ冬の眉月」に震える心は、あくまでも繊細である。年度当初の一月四日のNHKの番組を見ていたら、最先端の医学の世界では、アンチ・エイジングの研究が飛躍的に進んでいるそうである。しかし、どんな時代になろうとも、人間が自分の年齢をみつめる感情は、「胸ゆらぎ」を伴うものであり続けるだろう。