氷頭なまこ歯に沁むものを嚙みしめて夜の机にほれぼれとゐる

岡野弘彦 『異類界消息』(1990年)

 作者の歌は旧仮名表記だから、「氷頭」に振り仮名をふるとすれば「ひづ」となる。鮭などの軟骨を刻んで作ったなますを「氷頭なます」と言うが、大寒の夜に食べるなまこを「氷頭なまこ」と呼んだのは、文字面をみても肯えるものがある。美味の極みと言ってよい寒のなまこの味に、恍惚として一時をすごす作者。一連をみると次のような歌がある。

 

ぬらぬらとなまめくものを握りしめなまこを刻む寒の厨に

なまくらこなまくらことぞつぶやきて大寒の夜になまこ嚙むわれは

握りしめて水と()る歌をよしと言ひし釈迢空われはなまこ嚙みしむ

花のごとく紫だちてただよへるなまこに注ぐ柚の香の酢

この口やこたへせぬくち神すらも汝が愚かさを憎みましけり

 

回想はおのずから師の釈迢空折口信夫に及び、次いで海鼠についての「古事記」の物語が想起される。「汝は天つ神の御子に仕へまつらむや」と神に問われて、ほかの魚どもが皆「仕へまつらむ」と申しあげた中に、海鼠だけがそう言わなかった。それで天の宇受賣の命が、海鼠に向かって「この口や答へせぬ口」と言って刀でその口を裂いてしまったので、今に至るまでこの生き物は口がさけているのである、という物語だ。強力な支配者に頑固に口を閉ざした海鼠には、最後まで不服従だった者の面影があるけれども、また単なる愚か者という気配もしないではない。「花のごとく紫だちてただよへる」のは、美なるものに昇華し了ったセイント・フールたる海鼠の姿だ。読みながらこちらもほれぼれとするのである。