松村 由利子


地下鉄のなかを泳げる魚かなザジに小さなくちづけをして

          吉野裕之『博物学者』(2010年)

 

地下鉄のホームや車両の中は、ちょっと不思議な空間である。日の光の決して差し込まない空間には、何か魔法がかかっている。空気中を泳ぐ「魚」がいたって驚かない。

そういうわけで「地下鉄のなかを泳げる魚」は、とても魅力的な存在なのだが、この歌の輝きを決定づけているのは、下の句の「ザジ」である。

ムール貝を見れば必ず「地下鉄のザジ」を思い出す私にとって、「ザジ」という言葉に喚起されるイメージはかなり大きい。彼女のおかっぱ頭やオレンジ色のセーターだけでなく、魚に「くちづけ」されて、くすぐったそうにしている笑顔まで見えるようだ。

「地下鉄のザジ」は、ヌーヴェルバーグの旗手として知られるルイ・マルの監督した作品である。計算し尽くされたサスペンス「死刑台のエレベーター」を撮った2年後に、この愛らしい女の子がパリを闊歩する作品を手がけたとは、何と心にくいことだろう。

あんなに地下鉄に乗りたくてパリを訪れたザジなのに、ストライキのためにメトロは動いていない。最後にやっとおじさんに抱えられて乗ったのだが、ぐっすり寝入ってしまった彼女はそのことを覚えていないのだった。

それを思うと、この映画が封切られた1960年から半世紀たって、作者がザジを地下鉄に乗せてあげたのは、誠に粋な計らいと言えるだろう。ザジの破顔がますます大写しになるようだ。

 

編集部より:吉野裕之さんの「吉」の字は、異字体で本来は3画目(士の下段の横画)が長いのですが、ここでは、便宜上、「吉」を使用しております。ご了承くださいませ。