吾(あ)を生みしもの地にありと思へども二階にのぼり月にちかづく

伊藤一彦『青の歳時記』(1987年)

多くの古代神話で、太陽は男性神、月は女性神であると考えられた。
月が、死や不死、豊穣の象徴と考えられたのは、その満ち欠けに関係があるのだろう。
潮の満ち引きや、女性の生理の周期など、身近なものごとの変化におよぶ月の神秘的なちからに、ひとはふるくからこころをひかれてきた。

「吾を生みしもの」は直接には母親である。
母親への思いもかすかに感じられはするが、ここで「生みしもの」といっているのは現実世界の象徴と考えたほうがいい。
二階にあがってきれいな月をみていると、自分を煩わせる現実の世界のこと、家族血縁にはじまる人間関係のしがらみが、ふと遠い世界のことのように思われた。
そのひとときの開放感と、現実にうもれまいとする意気が一首には詠われている。

二階にのぼる、という日常的な行為が、ほんの数メートル月に近づくことだというのは発見だが、それが二階であるところに一首の俳諧味ともいえる味わいがある。
主人公は、現実世界からしばし遠ざかり、月の世界へ近づこうとするが、それもほんの一階から二階のことである。
シースルー・エレベーターで二十五階へゆくような歌であったら、この味わいは台無しになる。
二階という言葉に表れた日本家屋の雰囲気が、上句のかすかな母親像とひびきあって、一首にしぶい存在感を与えている。

作者は月が好きなのだ。
同じ歌集には初句が「月光」の語ではじまる歌だけで10首もある。
なかに、地元日向を詠んだこんな歌もある。
  月光の訛(なま)りて降るとわれいへど誰も誰も信じてくれぬ

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