さいかち 真


ローソンの袋の皺に眼はありてじいつと俺の方を見てゐる

斎藤 寛『アルゴン』(2015年)

 一人でじっとしていると、人間はいろいろなことを考える。子供の頃は、和室の天井の板の間の木目が、いろいろな動物や奇怪な生物の形に見えておもしろかったものだ。現代のマンションによくある無地の壁紙には、そういう連想を誘う要素が乏しいかもしれない。その代わりに、ビニールの袋が眼の形にくぼんでいて、そこに生き物の気配が生まれている。この歌の前の一連には、次のような歌がある。

 

生意気な青年のまま死ぬ権利失ひしより続く沼棲み

双乳の重さを負はぬ性なれば思惟(しゆい)しばしば浮き立ち易し

 

一首め、生活者として生きるということは、きれいごとだけではすまされない所があるのであって、それは別に理想を失ったからでも、性根が腐ったからでもないのであるが、内心忸怩たる思いは常につきまとう。中年も後期にさしかかって来て、おおよその人生の帰趨は見え始めているところで、こういう屈託を腹の底にしのばせている作者の在りように、私は共感と同情を惜しまない。

何しろ、満を持して出す歌集の「あとがき」に、「アルゴンはおよそ何の役にも立たない気体なのだという。そのありように大いに親近感を抱き、タイトルとした。」と書く作者である。ここには、短歌を「悲しき玩具」だと言った石川啄木の遺伝子が受け継がれていると言えないこともない。けれども、斎藤寛には、二首目の歌からわかるように、啄木ら明治の男のような「男子はかくあるべき」といった考え方がない。むしろ逆に男性の方が、女性に比べると乳房の重しが無い分、軽薄になりやすい、と言い切ってしまうところが、私にはたまらなくおもしろい。

現代のわれわれは、「岡井隆は雄である」とか、「佐佐木幸綱の男歌」というような発想がもてはやされた時代から随分と隔たったところに来てしまったのである。作者の女性的なものに対する繊細な感覚は、次のような歌からも読みとることができる。

 

ワープロがふうはり詩人になりし夜の「燦然珊瑚の休暇について」

つくよみの冴ゆるころほひ両の乳搾りて妻は夜勤に出でぬ

 

「燦然珊瑚」は、「産前産後」の誤変換のことだろう。お産が燦然としているなんて言葉は、なかなか言えないし、海中の珊瑚は、妙に休暇のイメージとぴったりくる。二首目は、妻へのやさしい思いが感じられる歌で、なかなかこういう歌は作ろうとして作れるようなものではないのである。