潮曇るむかうの島をねむらせてまひるまの空に游ぶアヂサシ

角田 純『鴨背ノ沖ノ石』(2013年)

夏の瀬戸内海の光景である。湿気がたちのぼって海面は靄っており、向こうに見える島は、まるで眠るかのようだというのである。アヂサシは、水辺を好むスマートな渡り鳥である。

作者は愛媛県松山の人で、船にかかわる仕事をしておられると聞いたことがあるが、私はあまり具体的な事を知らない。ただ、いかにも瀬戸内海の歌が多く、実際に小型の船を動かしているらしい歌もある。夢や心象風景をうたった作品も多いので、それらが海の風景の歌と溶け合って、独特の知的な抒情のあふれる詩の世界を構築している。次に引く一首目の歌は、いかにも夏の夜の海という気がする。

 

夜の闇のみぎはの音を聴きをればなまなまとせり視えざるものは

わが古りし舟を浮かべて瀬を渉る青くさやけきあさの薄雲

ほのぐらき潮の背を越えてゆく由良の岬に近づく舟は

 

作者の歌には、古歌の歌枕がしばしば出て来るのだが、それが歌語ではなくて眼前の現実の地名として現われて来るところが、おもしろい。「あとがき」によれば、「鴨背ノ沖ノ石」は、瀬戸内の勿来諸島の鴨背島の南南西にある小さな暗礁の名前なのだという。この暗礁は、作者の連想のなかで、西行の古歌「もののふの馴らすすさびはおびただし有磯の退り鴨の入れ首」という作品にもつながっているのだという。「暗礁」はまた、記憶の底に沈んでいるもの、心象の暗がりに在るものをたとえてもいるだろう。歌集一冊が、「もののふの馴らすすさび」の産物だと、作者は暗に言いたいのかもしれない。

 

くれなゐを底にしづめてゆふぐれの雲は群れ立つ水無瀬島の沖に

 

この「水無瀬島」は、「みなせ」と仮名が振られている。これは古典文学の水無瀬ではなくて、瀬戸内海の小さな無人島の名前である。

 

にごり濃き夏のをはりの海面(うなも)より来たりて苦きうみ鳥のこゑ

 

風景の歌としても読めるし、生活や人生の疲労感が投影された歌としても読める。夏のおわりには、海もそこに生きる生き物も、そして人間も一様に疲れ、にごりを見せるものなのだろう。みごとな把握である。作者の瀬戸内の島々を詠んだ歌は、もっと注目されてもいいのではないだろうか。