十代の自分を恋えりローリング・ストーンズ聞いて幸せだった

川本千栄 『樹雨降る』(2015年)

 誰しも十代の時という特別な時間を持っている。その時に見たり聞いたりしたことは、大人になってからの経験とは異なった輝きを持っているとともに、未熟で怖れを知らないがゆえの失敗と錯誤の経験に満ちている。掲出歌の場合は、無条件になつかしく、また微笑ましくもあるのだろう。

大人の理知は、苦い。作者は、一貫して視線を低いところに置いて自他の在りようを見ている知性の人だ。自分をごまかすようなことはしない。あるがままの自分という舟を、自意識のバランスをとりながら運転しているようなところがある。だから、この連載の八月六日のところに引いた前田夕暮のような天真爛漫なところ、手放しで感動する歌が少ない。でも、こうして歌を作りながら生き抜いているのだということは、よくわかる。

 

黄の色の口の尖れるチューリップ何かもう真っ直ぐにも疲れちゃって

 

これは、「何かもう真っ直ぐにも疲れちゃって」と、私の目の前に居る対話者が、ぼやくようにそう言ったのだろうが、いくぶんか「私」自身の姿も投影されているだろう。こんなふうに自分の中にあるものを対象化しながら語る文体を、私は作者の高度な自意識の歌として読むし、この話法に熟達した「アララギ」系の結社「塔」のエコールのぶ厚さを思いもするのである。

 

四条通を歩く宵山幼い日登った鉾はこんなに低い

 

この歌も掲出歌と同じで、言うならば浪漫主義的でないところが一貫している。甘い幻想を許さない批評性があって、その分自分に厳しい。それにこの歌はこの一首きりだ。追想におぼれたりしないで、切り上げてしまうのである。

 

マスカラを傾けながら女装する気持ちに朝を引き絞りゆく

 

この歌に共感する働く女性は、多いであろう。仕事というものに向かって行く時の小気味いいほどの緊張感が、みごとにとらえられている。

 

自由研究未だ独りで出来ぬ子が一行書いてはママママと呼ぶ

 

読んで思わず笑ってしまった。この歌にも、共感する母親は多いであろう。もちろん愛情はあるのだけれども、流行語でいうなら「クールな」おかあさんの歌だ。同様に「クールな」妻の歌や、「クールな」学校の先生の歌も歌集の中にはあるということを言っておけば、ここは全部言わなくても足りるかと思う。短歌は、微細で微妙な心理の翳を表現することができる。そこがおもしろい。