吹きあげてこもれる風にしばしばを大樹のごとくふくらむが見ゆ

蒔田さくら子 『標(しめ)のゆりの樹』(2014年)

 風に揺れる樹を見ていると、こころがほどけて来るのを覚える。しばらくは、目を風と樹とにあずけて、立ち止まっていたい気持ちになることがある。掲出歌は、三句目の「しばしばを」で小休止。この歌の上句にア段の母音をちりばめ、下句にウ段の母音のことばを配した韻律は心地よい。これは、作者の長年の作歌修練のなかで自ずから身に付いたものである。作る側も読む側も、自然にそこに反応している。それが短歌の世界というものである。

「大樹のごとくふくらむ」ということは、それほどの大樹ではないのである。風はかなりの強風なのだろう。何か音を消した映像のような気配がある。窓の内側から見ているのか。風にふくらむ樹は、ストップ・モーションがかかった映像のように、動きが緩慢な印象がある。ストップ・モーションというのは、映像表現の効果として映像がゆっくりになっているようでいて、実は人間がもともと、時にはものをゆっくりと見てみたいと思っているから、それでゆっくりになるのではないか。短歌の場合は、言葉だけでそういう表現効果をイメージとして持たせる事ができてしまう。

 

ルビありても()せぬ子の名の多き世に業平読めぬと駅名変はる

 

話はかわって、最近は、どう見てもこじつけとしか思われないような子供の名前が増えた。新しさや個性をもとめるあまりに伝統を見失ったかたちは、日本の文化の現在を正確に写していると感ずる。「業平(なりひら)」が読めない人が多くなったということは、現代の日本人の何割かが、江戸時代の文字を学んだひとびと以下の文化的な程度であるということを意味していると言うほかはないだろう。「業平読めぬと駅名変はる」。なんと、噴飯ものの現実ではないか。作者はふかく憂え、しずかに怒っているのである。

それでも文科省は、この何十年の間に「国語」の時間数を減らして「英語」や「情報」の時間を増やしてきた。だから、こうした基本教養の崩壊は「国」の責任である。小学校の「国語」の教科書に載っている文学教材は、以前の半分にまで減っている。大人たちはそれを知らないだろうと思う。時間をかけて変わってきたものに、人はなかなか気づかない。日本人は、日本語と、日本語教育の方法論をいま一度議論すべき時に来ているのではないか。そろそろおしまいにしないといけないが、別にこういう話をするためだけに、この歌集をとりあげたのではなかった。

 

この年にならねばわからぬことありと思ひ知るまで生きたまへ君

 

そんなにすぐに諦めて短歌をやめたり、世をはかなんだりしないでくださいよ、とこの歌に託して言いたかった。きっと、人生も短歌の味わいがわかるのと同じで時間が必要で、あせることはないのだ。

 

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