つくづくとゆめにしあへればふかどより少年魂のいたみふきあぐる

坪野哲久 『留花門』(1989年刊)

昭和十八年の作品。「少年魂」の「魂」には、「こん」と振り仮名がある。一応語釈をすると、「夢にし会へれば」の「し」は強意の助詞で、ここはあえて字余りにしている。こういうところは、いかにも坪野哲久の語調である。「深処より」というのは、心の深いところからという意味。結句の「痛み噴き上ぐる」も字余りで、全体に鈍重な調子をもたらしている。

母恋いの歌とまずは思う。亡くなった母と夢で会う作者は、少年の頃に戻っている。もうひとつは、少年のようなあこがれを持って慕っていた女人のことと読む。遠い昔の日の思い出である。しかし、「つくづくとゆめにしあへれば」という言葉には、この文脈で読めば大人の係恋の匂いがしないでもない。相手は、美しい嫂(あによめ)のような年上の女性というイメージである。もっともこんなことを言うと熱烈な哲久の読者は怒るかもしれない。むろん相手が男性でもかまわない。その場合は、政治活動の元の同志であったりする。特高警察の監視のもとに置かれている身分では、夢の中でなければ、ゆっくり仲間と語らうことはできないのである。

しかし、ここはある年齢に達した男が、年甲斐もなく少年のように女人を恋しく思うという、その現実の人生の過酷さを思うべきなのかもしれない。母でもなんでも、私を救ってくれる女性的なものなら何でもいいのである。歌集の「後記」(昭和二十二年八月記〉には、次のようにある。

「昭和十七年以降の作品には未発表のものが大部分を占めている。この間、自分は治安維持法の被疑者として病床より検挙され、友人達と一しょに出していた雑誌「鍛冶」はつぶされてしまった。(略)自分は拘置中病気が悪化した為仮釈放となったが、事件は昭和十九年冬に至ってようやく片づいたような始末だった。こんな具合であったから、戦争の全期間を通じて自分は精神的にも肉体的にも重々しい苦渋な拘束と圧迫とを蒙りつづけてきたわけである。生活上の困苦欠乏は言うまでもなかったが、このことのみならば耐えも得たであろう。だが戦時中の困難な諸条件に加うるに悪法によるいわれなき束縛と重圧は実に言語に絶する苦痛を与えないではおかなかった。この歌集は自殺一歩前の作品集であり、生存不適者の悲鳴集でもある。(以下略)」

(引用にあたり新活字現代仮名遣いにあらためた)

圧伏された現実のなかでいぶし銀のように輝く妄念のようなもの、そういうものとして歌があった時代のことを、この文章は思い出させる。