さいかち 真


沖あひの浮きのごとくに見えかくれしてゐるこころといふけだものは

辰巳泰子 『辰巳泰子集』(2008年)

掲出歌、一読して、怖ろしいことを言うものだと思う。そうして、こう言わざるを得ないところまで追い込まれている作者の窮状が、黒々とうねる沖の海の色と、その間に浮かぶ浮きの揺れ動く心象として、たちまちに理解される。私はこれを相聞の「世の中」の歌として読む。ここで言う「けだもの」は、「けだもの」として己の内側にも、相手の内側にも住んでいるのである。海は、言わば欲念の海、妄執の海である。ちらちらと見えかくれする思いは、猛々しい野生の直接性に裏打ちされていて、そこには卑しさにも似た何かがあるのだ。

『紅い花』(平成元年刊)は、強烈な作者の個我が匂う歌集である。ページをめくっていると、男女の仲、性愛というもののあてどなさに翻弄されながら、現実の生活の界面に目と鼻と耳を近づけて、むくつけき人間存在というものの業を、余さず自身の心身に引き付けながら露わに歌おうとする作者の意志の強さに、また、そのことに支えられた言葉の力に圧倒される。

辰巳泰子が越えたいと思ったのは、中城ふみ子の歌ではないだろうか。中条の歌と行為が、男性優位の文化のなかでの大胆な女の歌として読まれたからスキャンダラスな扱いを受けたということは、否定しようもない。それに対して、辰巳泰子の歌をスキャンダルとして読むことはもうできない。ずいぶんと時代が進んだのである。しかし、現実の自己の心身をまるごと歌の養分として擲ちながら、出てくる言葉が挑発的であった点において、辰巳の歌集『紅い花』は、中条の血脈を継いでいたと言えるだろう。もっとも渦中の作者は、無我夢中で歌を作っていただけなのだろうし、その無我夢中が超絶技巧を呼び込むというところは、辰巳泰子の歌の大きな特徴だろうと思う。

 

賀茂川にどぜうを探す夢を見しさみしき首はけさを繋がる

ふかぶかと雨に抱かれて泣くこともみづにうつせば演技のごとし

 

これを二物衝撃の詩法だと簡単に言わない方がいいだろうし、また、うねうねと言葉を運んで来て衝撃的な結句を導いて来るのは、一見すると折口の言う伝統的な女歌のつくり方であるが、ここで作者にとってこうした結句は単に導かれるというだけのものではなかったのではないかと考えるとき、「伝統的な女歌のつくり方」ではない歌の姿が視野に入って来るのだろうと思う。「さみしき首はけさを繋がる」とか、「みづにうつせば演技のごとし」というフレーズには、少しばかり歌謡の匂いがする。ここには、この後の辰巳のあり方がすでに萌芽として見えているとも言えるが、やはり実感の肉体性を手放さないということが底にあるのであって、それがイメージの絵をつくる時に、構成的かつ構築的に行使される力(あくまでも繊細にだが)の源泉となっていると私は思う。