中島栄一 『指紋』(昭和二七年刊)
これは昭和十三年の作品。「みどり児はまだうぶ毛ぬれたり」という把握のみずみずしさにおどろく。秋冷の候、中島栄一の歌の持つ清らかで切々とした韻きに触れてみるのもいいのではないだろうか。歌集をめくっていると、早逝した「アララギ」の先輩や、知友を悼む歌が、たくさんあることに気付く。現代では、日本人は世界でも有数の長寿の民となっているのだが、この歌集の歌が作られた昭和五年から昭和二十年にかけては、若者が早死にした時代であった。第一に結核、それから日中戦争の開始以降は、戦争によって、またそれに付随する栄養不良によって、多くの若者たちが無念の夭折を強いられた。作者も一度喀血して療養期間を持った。
十津川に沿ひつつ共に旅ゆきし思ひ出の中に君あはあはし (中村孝君をかなしむ)
涙して君が暗き一生悲しめどわが知らぬ幸もありたるべし (南谷和吉)
中島栄一は土屋文明の弟子であるが、声調はむしろ中村憲吉系統の繊細で都会的な細みというものを持っている。作者は零細な商人であり、土屋文明のように赤裸々に現実をとらえて歌おうとしながら、多少無理しているようなところがある。内向的で純真で、ほとんど隠者的ですらある体質の持ち主なのに、肉親について容赦なく歌おうとしているところは痛ましい。
洗練されし会話つづきて不用意にはさみし言は黙殺されぬ 昭和十年
つきつめて思ふにあらね稗草のいな葉にまぎれ実をむすびけり 昭和十一年
心衰へてはしづかなる生をこひねがふ譬へば繭にこもる蛹か 昭和十二年
今の時代だったら、こういう劣等感や屈折をいちいち言葉にして表現したりはしない。しかし、この時代はこうした羞恥を美徳としたのである。現代は第一次産業に従事する人が激減して、社会全体のメンタリティーが、サービス業の方にいっそう傾斜しているから、要求がきびしくて、中島栄一のような神経質で繊細な人は、よけいに生きにくいだろう。戦時中は、痛ましいことに、こんなタイプの人でも戦地に行かされ、内務班の暴力にさらされた。以前の著書にも書いたが(『生まれては死んでゆけ』)、「アララギ」の靑山星三(軍医として従軍。茂吉の研究書あり)の歌などは、戦場における孤独をうたっていて、それ自体が当時の日本文化の高さの証であると私は考えている。
短歌は、アジール(避難所)としての機能も持っている。弱い人は、自分を護るすべを学ばなければならない。短歌をやっている人は、短歌によってなるたけ生き延びてほしいものである。
