わたくしが<私>を検索するといふ遊びの果てに襲ひ来るもの

菊池 裕  『ユリイカ』(2015年)

 これは、パソコンやスマートフォンの検索エンジンを使って、自分の名前を打ち込んでみる遊びを批評した歌である。そんなことをしているうちに、「襲ひ来るもの」があるのだという。自分について人が何を言っているかを気にしだしたら、たいていは神経を病むものだ。検索をかけてみても、せいぜい自分の仕事の貧寒さに直面させられるのが関の山である。むなしい。いずれにせよ、ネットに出ているのは、過去の自分についての情報である。

しかし、また一方では、検索してみなければ<私>が確認できない、というような倒錯した自我のかたちというものも、すでに存在しているのかもしれない。つまり、自分が他者にどのように見えているかを検索というツールを用いて、鏡に映すように再構成するということをしてみることが、自意識の快楽としてあるというような、またはそうでもしなければ自分を保っていることができないというような、一種のネット依存の病気である。掲出歌は、そんな心性の芽生えを批評しているところがあるだろう。掲出歌の直前に次の歌がある。これも秀歌である。

 

あつけなく世界がをはるわけぢやなくこのグーグル化された此岸へ

 

此岸はこの世。菊池裕の歌は、グローバル化した世界の矛盾を正面から取り上げて、きわめてアイロニカルに、ブラック・ユーモアなども交えながら、その現実に立ち向かおうとしている。対象は多岐にわたっており、いきなり全部が発火しはしないが、小噴火を繰り返すうちに真っ赤な怒りの炎がだんだんに点りはじめて、やがて大きく育つような感じの読後感を得た。

 

死に急ぐわけではなくて生き急ぐ便器に坐りスマホ()るひと

地下鉄のそのまた下の奈落まで(くだ)れば四、五歳ふけた気がする

賽銭といふ風習のなれのはて投票箱に硬貨をおとす

烈風になびく上枝(ほつえ)の神無月そのうち戦争さへ民営化

 

短歌は、どちらかというと負けが込んで来たところで粘り強さを見せるような生き方に合っている。現役で戦いながら斬り返そうとすると、勢いあまって自分の体を傷つけてしまう。そのせいか元気のいい作者はみんなどこか作品に不具合が生ずる。特に政治的な事象を取り上げる時には、なかなかうまくいかない事が多い。しかし、作者は敢然とそういう対象にも取り組んでいる。

 

もうちよつと左に寄つてくれないかいやもうすこし右でもいいから

都庁から国立競技場までを車窓に眺む 廃墟であらう

しばしばもこの一瞬を撮りつづけ真実だけがピンボケだつた

 

おしまいは、放送関係の仕事にかかわる人らしい自戒をこめた一首。