さいかち 真


公園にベンチのあればゆるゆると吾より先に影がちかづく

沖ななも 『白湯』(2015年)

 ある年齢を過ぎると、日々の出来事を在るがままに受け入れる態勢が、自然にできあがって来るということがある。私もそうだが、まず亡くなってしまった父や母の不在を受け入れる。また、自分の加齢に伴うもろもろを受け入れる。それには、どうしても一定の諦念が伴う。それを折に触れて歌にしてゆくと、作者の場合は、微光を放つ点描画の連なりとなって、あまり感情をたかぶらせない気配のする日々の絵が、翳りを持ちながら季節の風に吹かれるようである。

掲出歌は、ゆっくりと歩いているから、自分の影が先にベンチに寄っていくかたちが見える。それだけのことだが、人生もそんなふうに見えるのは、むろん受け入れる気持ちができているからであって、それが諦念を持つということなのである。

 

おとといもさきおとといも一人にてあすもあさっても独りにあらん

そそりたつ東京タワー脚脛のなみだぐましもかく尽瘁す

※「脚脛」に「あしすね」、「尽瘁」に「じんすい」とルビ。

 

短歌の会に行って中高年の方々と話をすると、だいたい「あすもあさっても独りにあらん」というような人ばかりで、また別の会に出かけた妻の話によると、あなたもシングル、わたしもシングルというような母子家庭の人が多くて、ああ一人の人ばっかりだ、私だけが一人ではないんだと思っても大した慰めにはならないが、東京タワーは一人で何十年もがんばって来たじゃないか。まるで高度経済成長を支えた世代のように。だから、涙ぐましいのだ。人がひとりで生きるほかはないということは。もう一首引いておわりにしたい。

 

人知れず幹の内部を流れいる樹液のごときかなしみもある