読み終へて本を閉ぢれば作中の人らそのやうに在る外はなく

       香川ヒサ『ヤマト・アライバル』(2015年)

 

在ることと、無いこと。起きたことと、起きなかったこと――香川ヒサは長きにわたって、そのことを考え続けている歌人である。

 

トーストが黒こげになるこのことはなかつたといふことにしませう

『Mathesisマテシス』

帝国が突然滅ぶそのやうなことがあつてもいいかもしれぬ          『fabrica ファブリカ』

IT産業栄える以前ITで大富豪となるチャンスがあつた                   『MODE モウド』

 

本の中の登場人物たちは、物語のなかで生きているから、何度読もうと書かれたままに行動し、書かれたとおりの台詞を口にする。けれども、読書という行為はどこか作者と読む者とが協同して行われるようなところがあって、読んだときの年齢や状況によって受け取り方が変わったりもする。書かれた文章は変わらないのに、「作中の人ら」はページがひらかれる度に変化するとも言える。

本をぱたりと閉じれば、そのときの自分の抱いた印象そのままに「作中の人ら」は固定される。そこには何か安心感があるが、もの悲しさも漂う。そうした不思議な感覚を、この人ならではの知的で独特な手並みで表現した一首である。