魚村 晋太郎


忘れるといふ美徳もあるをまつかなる木々らだまつてしぐれてゐたり

馬場あき子『ゆふがほの家』(2006年)

時雨(しぐれ)はさむい時期にふる通り雨で、俳句では冬の季語。
春や秋にふるものを、それぞれ春時雨、秋時雨と呼び、叢(むら)時雨とはひとしきり強くふる場合、片時雨とははんぶん青空がみえるのにふる場合にいう。
ふるくは、時雨が紅葉を染めるという約束事があって、和歌の世界では、秋の部にもある。
じっさい、時雨にぬれた紅葉はいっそう鮮やかではかなくみえる。

にんげんにとって、忘却は救いである。が、同時に美徳でもある。
こだわる、という言葉をいまはよい意味でつかうこともあるが、執着や拘泥は醜いこころの姿であった。
けれど、そんなことを思うのは、主人公の胸のなかに、どうしても忘れることのできないことがあるからにちがいない。

歌謡調のうつくしさで詠いはじめる七・七の上句。
その上句をうけとめる、美徳もあるをの「を」の一音には、わたしには忘れることができない、というフレーズがかくされている。
主人公の胸にうずくのは、とおい日の思慕か、或いは怒りか、憎しみか。

真っ赤に紅葉した木木の葉は、忘れることのできない自分の情念のようだが、木木はしずかに時雨にぬれている。
主人公も、きっと無言でいるのだけれど、その胸のうちは木木のように無心ではいられない。
そうか、どうしても忘れられないか。
季節のうつろいを見つめる歌人は、その景色を鏡として、自分自身をみつめ、自分自身に問いかけているのだ。
そして読者も、そのみがかれた鏡に、自分自身のこころをうつすのである。