苦しみの実りのごとき柿ありて切なしわれの届かぬ高さ

三枝昂之『甲州百目』(1997年)

葉が落ちつくすころ、柿の実は樹上に熟れる。
晩秋から初冬の空に灯るそのあかるい色には、紅葉とはまた別のおもむき、また別のさみしさがある。
中国原産だが、日本の代表的な果樹で、学名にもkakiの語が使われている。
人とのかかわりもふかく、嫁入りに柿の苗を持っていき、自分が死ぬとその木を薪にして火葬にするという地方もあった。

何かを成し遂げるのには、苦労がつきものだ。
しかし、この一首の、苦しみの実り、とは、苦しみを代償として得られた成果、とはおそらく違う。
ひとの苦しみ。その苦しみ自体がきわめられて、あかるく灯っている。
寒空に熟した朱の柿をみて主人公は、そんなふうに思った。

ひとの生が苦しみの連続であるとすれば、一首は生の賛歌であるともいえる。
そして、その苦しみの実りのような柿の実が、じぶんの手の届かない高みにある、という認識に、主人公のきびしい自省の精神があらわれている。

一首をふくむ連作には、『仰臥漫録』を読みながら、と副題がある。
『仰臥漫録』は正岡子規が死の前年から直前まで、俳句や水彩画を交えてつづった病牀日録。病気の苦痛や死をみつめる苦悩が虚飾なくつづられている。
一首の基調には、だから子規へのリスペクトの気持ちがあるのだが、作者の目は、子規を通じてもっと普遍的なひとの苦しみをみつめているように思う。
子規の柿と、目にうつる寒空の柿。
それらのむこうをみつめる作者のまなざしには、しずかに澄んだ祈りのようなものが感じられるのだ。

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