冬は冬の枝かたちよき玉蘭(はくれん)につくづくとゐる一つひよどり

石川不二子『鳥池』(1989年)

鵯(ヒヨドリ)はスズメ目ヒヨドリ科の鳥。
羽毛は灰色で、やや長い尾と翼は灰褐色。頬の赤褐色の部分と、頭頂部のモヒカンのような冠羽に愛嬌がある。
ヒーヨヒーヨと鳴く、と書いてある歳時記や図鑑が多いが、甲高い声で、キーユキーユとも聞こえる。
春から夏に山間部で繁殖し、秋から冬には人里近くにあらわれる漂鳥で、俳句では秋の季語。
一ノ谷の戦いに出てくる鵯越の地名も、春秋に鵯の渡りが見られたことによるが、最近ではひとに馴れて一年中都市部ですごすものも多いという。
平安時代には貴族たちに飼われた鳥で、藤原家隆が愛玩したという記述が古今著聞集にある。

玉蘭(ギョクラン)は白木蓮(ハクモクレン)の漢名。
白木蓮のことを白蓮(ハクレン)ともいい、同じ漢字でもビャクレンとよむときは白い蓮のことをさす。
白木蓮は、桜の頃、葉に先立って蝋燭をたてたような白い花をつける。
しかし、葉も花もない、その冬の枝のかたちに主人公は目をとめる。

葉をおとしきった、冬の樹の姿はたしかにうつくしい。
その樹の本性があらわれているようだ、と思う。
真冬の桜並木を歩いていると、このまんま咲かなければいいのに、と思うこともある。
だから一首の主人公には、とても共感するのだが、一方で、日本人は和歌の時代から、春の花、秋の紅葉を愛してきたということも事実だ。
冬の木をみつめるまなざしには、自身の老いへの意識や、楽欲から解放されたいっそうしずかなこころへのあこがれがこめられている。

つくづくと、の一語がいい。
つくづくとそこにいるのは、鵯であり、主人公自身でもある。
一羽でなく、一つというところに、冬の枝と鵯以外、なんにもない感じがじつによくあらわれている。
その景色はただにさびしいだけではなく、すがすがと見るもののこころを洗ってくれるのだ。

一首とあわせて思うのは、江戸さんの、
  のぞまれてだいじにされていたりけり夏には夏の柊が立つ   『椿夜』
第一歌集の『百合オイル』に入ってたと思ったら、『椿夜』の方だった。

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