かはせみは雫こぼして枝にもどり水中の魚一尾消えたり

池谷しげみ『二百個の柚子』(平成25年、短歌研究社)

 カワセミは最近は都市部でも見ることもあるが、本来は清流のあるところに棲み、小魚を餌としている。美しい羽根を持っていて、川蝉、翡翠、魚狗、水狗、魚虎、魚師、鴗などと表記されることもある。

 この一首では、カワセミは水中に潜り、素早く小魚を銜えて、水中から出て枝に戻った。恐らくは、枝の上で小魚を何度か銜え直し、飲み込みやすい角度にしてからまる飲みしてしまうのであろう。水中から飛び出た時はまだ体に水滴がついていて、枝に戻った時にそれが雫となって落ちる。

 そこまでは誰にでも歌えるであろう。しかし、この作品のユニークなところは、作者の意識は水中にもあるということである。上句で「魚」と言っていないから、作者にはカワセミのくちばしの魚は見えないのであろう。しかし、その仕草から魚を獲ったことは推測できる。水中にいた沢山の魚の中の一尾が確実に消えた。そして、水中に生じたその魚一尾分の空間はたちまち周囲の水によって埋められてしまい、水中はまた何事もなかったように鎮まるのであろう。そう考えると、どこか人間社会とも重ねられて読めてしまう。

 「枝」にルビは振ってないが、「えだ」ではなく「え」と読むのであろう。そう読めば定型に入る。見たことから、見えないことを想像することの魅力を伝える一首である。

    娘の去りてひかひかと母はさびしかりきんぴら牛蒡を山盛りつくる

    往還に見る直立の朱き花アロエはつねに戦闘的なり

    水と花たづさふるときひとは美(は)し悼むとふことひとのみがする