ふかくふかく潜る鯨のしづかなり 酸素マスクに眠りゐる人

熊岡悠子『鬼の舞庭』(2013年、角川書店)

 鯨は大型哺乳動物ではあるが、何らかの理由で海中深く潜ってしまえば海上からその存在は窺い知れない。鯨が潜っていても、海上の様子は、潜っていないのと同様である。しかし、海中深くでは、巨大な生命体が生命の営みを続けている。この海中深く鯨が潜っていると思うと、その幻の存在感は我々の心を圧倒する。

 一方、重い怪我や病気で自力での呼吸が困難な人は酸素マスクを使って呼吸する。酸素マスクは酸素濃度の高い空気を機械的装置で人為的の呼吸せしめる装置の一部であり、普通、口を中心に顔面下部を覆うようにデザインされている。それを付けた人が恐らくベッドで眠っているという。器械が酸素を送っている音は聞こえるのだろうか、それ以外に音はせず。静かな印象を受ける。これもまた、静寂の中の確かな生命の存在が感じられる。

 この一首の魅力は、それらの二つの異なったイメージが見事に重ねられていることである。敢えて言えば「ふかくふかく潜る鯨」は「酸素マスクに眠りゐる人」の比喩なのであろう。作者の目の前に酸素マスクを着けて眠っている人の静かさは、海中深く潜った鯨の静かさを思わせるのだ。しかし作者は「ごとく」のような比喩を意味する言葉の助けを借りないで、ただ、一字空けを挟んで並置することで見事な比喩とした。二つのイメージは時間や空間を越えて、どこか遠い宇宙の彼方で繋がっているようにさえ思える。

 歌集の帯に人類学者・宗教学者の中沢新一氏が「韻律と喩と幻想力がひとつに結び合い、時間が始原に巻き戻されていくとき、この世とあの世の中間にある、神秘的な「古代」の空間が開かれる」と書いていることが肯ける。

     雪雲のとぎれてひかり射す朝をガラスの魚(うを)が川のぼりゆく

     焼き上げし星型クッキー配りやる童話のなかの老婆の顔して

     初夏までは帰らぬ鳥を見送りぬ冬の灯台に背をあづけつつ