浴槽をさかさになつて洗ひゐるこのままかへらうあたたかい海へ

福井和子『花虻』(平成23年、角川書店)

 浴槽を洗う時の歌というものは女性にも男性にも結構ある。それそれ面白い発想をするものだと感心させられるが、この一首は「あたたかい海へ帰ろう」と言っている。

 この「あたたかい海」をどう取ったらいいのだろうか。「かへらう(帰ろう)」と言っているのだから、作者がかつて居たところなのだろう。一つの取り方は、母の胎内である。子宮の中の羊水の成分は海水の成分に似ていると聞いたことがある。生まれて、物心付いてから、楽しいこと、嬉しいことも沢山あったが、一方で辛いこと、悲しいことも沢山あったと思う。特に、女性は結婚してからは家庭に縛られているという意識があるだろう。「浴槽をさかさになって洗う」という行為はまさに、自己を犠牲にして家族のために献身する女性の象徴でもあろう。そんな時、ただただ心身を母体に委ねているだけでよかった胎児の時代を希求するという気持ちはよく理解できる。

 一方、「あたたかい海」を文字通り「海」と解釈することも可能であろう。人間の遠い遠い祖先は海の中に棲んでいた。生物の進化のある時点で、魚類から進化したある種の両生類が地上に進出し、様々な陸上動物に進化して、現在その頂点に人類がいるという。「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉を聞いたことがある。人間の胎児は母親の胎内で最初鰓の痕跡のようなものがあるのはかつて生物が海中にいた名残だという。生物が何十億年かかけて進化してきた過程が人間の母親の胎内で10か月かけて一息に繰り返されるのだという。この説が生物学的に正しいのかどうかは知らないが、なんとなく納得させられる説である。

 浴槽をさかさになって洗っているときの作者の意識は、母親の胎内どころか、何十億年かの生物の進化の歴史を一気に遡って、生物全体の「母」である古代の温暖な海に至っているのかも知れないと思うと、作者の発想の豊かさ、壮大さに打ちのめされる。

     雨ののち樹皮乾きゆく感覚は抱擁を解くすずしさに似む

     花虻の一心不乱を見届けて歩きだしたり今日の大事へ

     火の骸ごろりごろりと横たわる鋳物資料館にわれは冷えきる