いつの世もTaxed enough already 茶箱を投げるなんてしたくなし

高崎淳子『難波津』(2016年、ながらみ書房)

“Taxed enough already”は直訳すると「税金はもう十分に払っている」ということになろうか。それで「茶箱」とくると、当然「ボストン茶会事件」を思い出す。

1773年、まだイギリスの植民地であったアメリカ・マサチューセッツのボストンでイギリス本国の植民地政策に憤慨した植民地人の急進派が、港に停泊中の貨物船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷である紅茶の箱を海中に投棄した事件があった。これを「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」と言い、アメリカ独立戦争の前哨戦となるものであった。その背景にはイギリス本国が制定した「茶法」がある。これはイギリス東インド会社に植民地での茶の販売独占権を与えるもので、それまでオランダから茶を輸入していた植民地から本国が茶税を徴収することを目的としていた。

作者がボストンを訪れた時の作品のようであるから、実際に240年前に茶箱が投棄された港を見て作ったのであろう。「いつの世も」という言い方には、現在の自分のことが重ねられているようだ。特に独身だと重税感がある。作者は毎月の給与明細を見ながら天引きされている税額に憤慨していたのかも知れない。

その憤慨は何とか発散したいところであろうが「茶箱を投げる」なんてことはしたくないというところにこの作者の機知がある。諧謔性もあり、下句の柔らかい理性は魅力的であるが、言っていることは極めて重いことである。

陽ざかりを赤やみどりの実のはてに熟るるかなしさトマトにみたり

情景をひらけと言へど「春暁」は朝寝坊の歌と暗唱されて

悲しみに翼があらばゆらりゆら蛍はひかる一の坂川