江戸の人あさがおに身上つぶせりと友の失恋聞くごとくいる

大井 学『サンクチュアリ』

(2016年、角川文化振興財団)

 

後半の比喩がユニークですが、そのまま読めば、失恋話をじっさいに聞いているのではなく、そんな気分がしているということになります。どこから失恋という語が出てきたのか、ふしぎです。

上の句は江戸の道楽の話。当時アサガオは品種改良が進んでブームとなり、下級武士がサイドビジネスのため栽培していたとのこと。

余裕のある愛好家、あるいは野心家はさらに変わった花をつくりだすため時間とお金を費やし、やがて家がかたむいた、という内容において特定の人物や逸話を指しているのかどうかはわからないのですが、「へえ、そんなことで身を持ち崩すんだ」という聞き手の顔つきが見えてきそうです。

いまも愛される花とはいえ現代人の感覚では「そんなこと」でありながら、うっすら感心しているようでもあり。

つまり〈江戸の人〉はアサガオに惚れこんで破滅した。だから〈失恋〉なんだ。なるほど。そんな飲み屋トークにこちらも加わっている気がしてきました。

他人事だけれどその情熱がちょっとうらやましい。そんなほどほどの距離感が、自分ならぬ友人の失恋という発想になったのでは。

 

ああワカメうどんの汁にほどけゆく おんなもおとこも抱かずに今日も

 

こちらは他人事というには生々しい口吻で、たいしたイベントのない生活を〈ああ〉と嘆いてみています。ただ、おんなも・おとこも、と並べた段階で語り手の属性(性別や性的指向)もフラットになり、やはりある種の距離感が生じています。