小沼青心『野鳥時計』
(2016年、砂子屋書房)
これはもちろん大伴家持の歌を下敷きにしていて、『万葉集』巻十八の4136番、
あしひきの山の木末[こぬれ]の寄生木[ほよ]取りて插頭[かざ]しつらくは千年[ちとせ]寿[ほ]くとそ
山の木の梢の寄生木=ヤドリギを取って髪にさすのは千年の長寿を願ってのことだ、というもの。いわゆる越中万葉歌で、現在の富山県に赴任したとき、土地の正月の風習をうたったといいます。落葉樹に寄生する常緑樹のヤドリギはその生命力のつよさから、ヨーロッパでも古来クリスマスのまじないと結びついていました。
古今東西を問わない願いを思って、ふと〈千年を仰ぐ〉というフレーズが出てきたのでしょう。ひねりのない着地に見えながら、〈千年〉の繰り返しに万感がただよいます。〈ほよ〉という古名の響きも、ため息っぽい。
ヤドリギにはしかし、宿る木の生命力を奪うイメージもあります。
梢[うれ]そよぐ音のかそかに欅木をむしばむ寄生木 赤き実の見ゆ
なるようになって三年 寄生木のさても共存おだやかならぬ
なにが三年かというと、このような歌も。
小春日のような日だった ステージⅣの夫の肺癌みつかりし日は
鳥や植物と接する日々のたのしさを伝えてくる歌集ですが、病の不安もまたヤドリギに投影されています。癌の治療をしながら仕事を続ける人も多い昨今、世間と完全に切り離されることはないにしても、こうした歌をあわせて読むと、ヤドリギにかける願いが寄る辺のないものに思われてきます。