石川浩子『坂の彩』(2016年、ながらみ書房)
歌集のタイトルは「さかのあや」ではなくて、「さかのいろ」と読むようだ。作者は父の介護をしている。父にスプーンなどで粥を食べさせているのだが、なかなか飲み込めない父は粥でさえほろほろと零してしまう。父の余命がいくばくもないことを作者は知っているのかも知れない。その父に粥を食ませることは切ないことであろう。その切なさの象徴が粥の白さなのである。
考えてみると、白は実に切ない色なのだ。結婚するときは白無垢を着る。結婚はこれからの幸せへの期待であると共に、これまで睦んできた家族との別れでもある。また、降伏するときは白旗を掲げる。これも非情な戦闘の終焉であると共に、これからの過酷な捕虜生活の始まりをも意味する。特に旧日本軍の場合は、降伏は死に勝る耐え難い屈辱だったようだ。更に、人の一生が終わったあとの死に装束も白である。一般的に、白には純粋、無垢といったイメージがあるが、一方で、こう見てくると、悲しみ、切なさの象徴でもあると思う。
掲出歌の印象は切なさと共に美しさも感じる。状況は説明されてないが、恐らく病室の中で、朝食であれば、窓から明るい日差しが差し入れているかも知れない。朝の日差しに温かい粥の白さが輝いている。その白の輝きが美しければ美しいほど、遠からず訪れる死との対比が際立って、一層切なさが増す。「ほろほろと」というオノマトペもその切なさを増幅しているようだ。事実の説明が四句目で一旦切れて、結句で作者の内面の吐露が添えられている構造の作品である。
点滴の、酸素のチューブ最後まで拒みて父は春に逝きたり
なめらかに髪洗われて秋の陽は舌先のようにわれにやさしき
特快を選んで急ぎ乗るという能力いつまでも身につかずおり