三井 修


衣着けし犬がひかれてゆく土手に野良犬が首をあげて見てゐる

志垣澄幸『日月集』(2014年、青磁社)

 なかなか興味深い場面に注目している。最近、犬や猫に様々な服を着せて散歩させている姿を見ることが多い。動物に服を着せる理由は幾つかあるのだろう。まず、暑い地方が原産の犬や猫を日本へ連れてきて飼育しているので、冬は防寒をさせるという理由があろう。もう一つは、単に飼い主がこんな服を着せれば可愛いからという全くの飼い主側の情緒で着せている可能性もあろう。しかし、元々犬や猫は裸で何万年も生きてきたのである。そもそも当の犬や猫はどう思っているんだろうか。喜んでいるのか、それとも迷惑がっているのか。そして、当然のことながら、人間に飼われていない犬や猫は服を着ていない。

 この一首、服を着た、いや、着せられたと言った方が適切かもしれない犬が飼い主に引かれて土手道を散歩している。「ひかれてゆく」という表現が入っているので、今日の散歩をあまり喜んでいないのかも知れない。犬だって、時には散歩に気の乗らない日だってあるだろう。しかし、悲しいかな人間の言葉が話せないので、気乗りでないことを多少態度では示すのだが、鈍感な飼い主はそれを意に介さないで、日課だからという理由でいつものように散歩に連れ出す。「ひかれゆく」という表現にその辺りの事情がかすかに滲んでいるような気もする。

 一方、様々な事情から人間との積極的、持続的な主従関係を絶った犬、即ち、野良犬は服を着ることも、引かれていくこともない。勝手気まま、自由奔放、独立独歩である。しかし、その代償として、寝ぐらや食料を自分の才覚で確保しなければならないという苦難を背負うことになった。どちらが幸せなのだろうか。

 引用歌の野良犬は服を着て引かれてゆく犬をどのような気持ちで見ているのであろうか。人間に可愛がられて、住む場所も食料も支給されている生活を羨ましいと思っているのであろうか。それとも、人間に従属し、自由を売り渡し、野生動物としての誇りを捨てた同族を憐れんでいるのであろうか。「首をあげて」という表現には、そんな矜持が見て取れないこともない。しかし、作品はどちらとも言っていない。或いは、犬たち自身は何とも思っていなくて、そこに何らかの意味を求めようとするのは我々人間だけなのかもしれない。

       けふはまだ死は遠き日に思はれて海外旅行などを思へり

       総菜屋に行くときもさうその昔教師だつっとふことが束縛す

       犬に寄りてなにかもの言ふ男あり犬も人間のやうに聞きゐる