吉岡太朗『ひだりききの機械』(平成26年、短歌研究社)
企業の不祥事があると、経営幹部がカメラの前で一斉に頭を下げて謝罪する。さすがに土下座まではしないと思うが、雰囲気としてはそんな感じである。当人たちの屈辱感はもちろん、彼らの家族はどんな気持ちでそれを見るだろうかと思う。それも、自分自身が関与したことならまだしも、自分があずかり知らないところで部下(それも、普段は顔も知らない)がしでかした不祥事の責任を、たまたまその時の経営幹部であるということだけで沢山のカメラの前で、それこそ土下座をせんばかりに頭を下げ、その姿が全国に放送されるのである。
盛りを少し過ぎた頃の紫陽花を見ていると、そんな記者会見の場面が重なってくるという。なるほど、確かにそのように思えてくる。「まえにのめって」という辺りはまるで打ち首の土壇場に引き据えられた罪人のようである。紫陽花の花毬を人間の頭にたとえた短歌はあるが、盛りを過ぎて自らの重さで傾いているそれを人間が集団で土下座をしている頭と見立てた作品は初めてではないだろうか。紫陽花の花という日本の伝統的な美と、集団の土下座という極めて生臭い現代的な場面が奇妙に交差して、読者に強烈な印象を与える。
下句の「しとる」などという舌足らずの表現がいかにも現代の若者らしいが、上句の「まえにのめって」辺りはリアルである。内容だけでなく、表記方法などの面でも実験的な歌集だと思う。
転送機で転送できない転送機 明日は今日より少しだけ夏
影と影かさねるための簡単な方法として抱き寄せていた
夜明け前プラットフォームはいくつかの記憶と直につながっている