三井 修


おおよその若き日を知る友どちと湯葉のお煮染め茶の間に食ぶ

寒野紗也『雲に臥す』(2016年、ながらみ書房)

 若い頃の思い出は懐かしいと同時にとても恥ずかしいものでもある。随分、無茶や無鉄砲をしてきたと思う。どうしてあんなことをしてしまったのだろうかという苦い思い出もある。そして、そのような恥ずかしくて苦い経験の傍にはおおむね友人がいた。言い換えればそのような友、俗に言う「悪友」と連れ立ってそのようなことをしてきたように思う。男性の場合は特にそうだが、女性の場合もあるのだろう。ただ、女性の場合は悪事の共有ではなく、もう少しほのぼのとした思い出の共有なのかも知れない。

 掲出歌では、恐らくは学生時代からの友達と食事をしている。学生時代、いつも行動を共にしてきた友だろうと思う。その場で思い出話をするというのではないだろうが、それでもお互いに若き日の相手をよく知っているという意識はある。その意識がある種の秘密の共有のような連帯感、安心感をもたらす。穏やかで和やかな、そしてまた、とても楽しい時間である。

 しかし、いかに旧友、親友だからと言って、相手の全てを知り尽くしているわけではない。誰にも明かさない自分だけの過去と言うものもあるのだ。”あなたは私の若い時代のことを殆ど知っているけれど、あなたの知らないこともあるのよ”といった気持ちもどこかにある。それが故に「おおよその」という言葉が使われている。

 それにしても、そのような友と食べているのが「湯葉のお煮染め」だというのが面白い。湯葉の煮しめははんなりとして歯ごたえがあり噛み切りにくく、それでいて深い味がして、滋養によい。古くからの友というものは案外そんなものかも知れないと思わせる。

       朝ごはんすぐ昼ごはん夕ごはん声を限りに舅呼ぶ姑は

       いつだって留守がちの嫁と決めつけるどのみちあなたは義妹だから

       白骨はやさしい音をさせているこれきりなり身体というは