枝を過ぎ葉に触れはにふれそしてみなわが眼のなかへ雨おちてくる

加藤克巳『螺旋階段』(1937年・民族社)

 

雨の降る日に、木の下で空を仰いでいるのだろう。対象認識のもとに、樹木の高低感と雨粒の遠近感が絡み合う。これは風景描写ではなく表現主義の歌である。正岡子規以来の「写生」の方法とはちがう。やがてアメリカと戦争がはじまり、歌壇が戦意高揚歌に覆われてゆくという時代に、このような作品が生まれていたのであった。

 

「葉に触れ」を「はにふれ」と言いなおす手法は、今日では目新しいものではなく、むしろ目立ちすぎると言われそうだが、当時、キュビズムやシュルレアリスムの影響によるこのような表現方法は、ファッショナブルで、たいそう新しかったにちがいない。

 

「はにふれ」の漢字から平仮名への転換は、意味の解体である。「葉に触れ」と認識された意味が、音に解体されて意味の拘束を離れる。短歌の言葉が、作者の認識や感情をとおさず、どのように直接外界を受け止めることができるか。歌の問題意識はそこにある。

 

まつ白い腕が空からのびてくる抜かれゆく脳髄の快感

見ぬかれしはらだたしさにトイレットの鏡にわれをはりつけて来る

 

加藤克己はいわゆる短歌的抒情によらない歌人である。短歌史の上では、このような現代詩との境界にたつ作歌手法は、昭和30年代に盛んになった前衛短歌運動へ受け継がれることとなる。