春泥を踏みつつゆふべ帰り来て皮膚脱ぐやうに靴下を脱ぐ

小島ゆかり『獅子座流星群』(砂子屋書房:1998年)


(☜1月30日(月)「靴下はなんのために (5)」より続く)

 

◆ 靴下はなんのために (6)

 

第三歌集である『獅子座流星群』から引いた。歌集には次の歌がある。
 

わたくしがいよいよわからなくなりて 四十歳の朝の雁来紅かまつか

 

誕生日の朝の歌だろう。不惑の歳を迎えたはずが、自分ことさえよく分からない。そんな朝に雁来紅の色は刺してくるように感じられるのだろうか、じっと見ている。この歌よりも前に掲出歌は置かれているので、三十代も終りを迎える頃の歌となる。
 

春の日暮れを、おそらくは職場から帰った場面だろう。雨ならば傘をさせばしのげるが、ぬかるんだ道は踏む以外にどうしようもない。上の句にはそんなやるせなさが漂う。家について靴を脱ぎ、そして靴下に手をかける。べりべりとまるで皮膚を剥がすかのように靴下を脱ぐ様は痛ましいが、一首全体を通しては感情が殺されており、日々の当たり前の所作であるかのように詠まれている。そこがまた読む側としては辛い。
 

「靴下」が暗に意味するのは、仕事に代表される家の外の世界を象徴するものなのだろう。いつかはそれが完全に身体の一部になってしまい、剥がれなくなってしまうような予感がある。
 

掲出歌を収める連作「カンガルーの尾」には、次のような一首もある。
 

真夜中にかならず菓子を食べるゆゑ強く正しき女になれず

 

別に真夜中に菓子を食べようが食べまいが「強く正しき女」とは関係ないとは分かっている。しかし、自身のちょっとした行いの対極に、社会が無遠慮に求めてくる「強く正しき女」を常に意識してしまう。それもまた、本来的に自らのものではないのに皮膚のように張り付いてくる靴下や、踏みたくもないのにその上を歩かなければならない春泥のようなものなのかもしれない。
 

歌集を通して読むと、単身赴任であるのか夫は遠方にいることが分かる。仕事とふたりの娘との生活に追われ、少しずつ削られるように疲れていく様子が浮かんでくる。
 

オフィスビルのガラスの扉澄みふかく今朝もしづかにわれを消すなり
高層ビルに一日はたらき無臭なる今宵のわれに子らまつはらず
子が待つは苦しく甘し白菜と未処理伝票かかへて帰る
「雨だから」そんな理由で生活を休む日が欲し今日も雨だから

 

四首目に至っては、ちょっとした思いつきのようでありつつ、しかし心身は限界に近いように感じる。欲するのは「仕事を休む日」でも「子育てを休む日」でもなく、それらを含めた生活の一切を休むことなのである。
 

すこし泣いてもよいか子の手を握りしめ握りかへしくる力を待てり

 

何があったのか、思わずこころがいっぱいになってしまい泣きそうになってしまう。そんな時に、他者との絆を探ろうとするのは、どこまでが自分自身なのかさえ覚束ない「足」の方ではなく、脱げない皮膚に覆われた自分自身のたしかな手のひらなのだ。
 

靴下の歌からはじまり、母娘の歌にたどり着いた。
 

最後に、靴下の歌であり、かつ母娘の歌でもある一首を紹介してみたい――
 

(☞次回、2月3日(水)「靴下はなんのために (7)」へと続く)