大いなる火皿となりて阿蘇ありし誰の死後ともなかりし劫初

安永蕗子『天窓』(2009年)

 

誰の死後でもなかった時……。
考えてみれば、世界の始まりにはそんな時があったのだと思う。
死がないということは、生もないということだろうか。それとも、すでに生まれた者はあったのだろうか。そのことによって、歌は違ってくるようで、それさえどうということもない、という気分になる。

次のような歌もある。

・内深く火を抱く山に雪降れり牧場悍馬の爪も潤むか

山も馬も、その命のはげしさに水のイメージが重なるさまが豊かでうつくしい。

この歌集には、命を見通すスケールの大きな目が感じられる。

 

・豊熟の玉実残して鳥去ればその後の余白我が歌ふべし

鳥は、その後に「豊熟」のものを残してゆく、そしてさらにその後の余ったところで、「我」はしずかにうたおうとする。

わたしというものも、歌も、こういうものでありたい、と思うのだ。

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