米川千嘉子『一夏』(1993年)
その魅力にひかれながらも、「西洋」は「東洋」を「蔑」している、それはもう過去のことだろうか。
アメリカの新聞で、千葉のホテルから黄金風呂が盗まれた、という記事を昨年だったか、読んだ。日本についてはほとんど取り上げられることのないなかで、それはけっこう目立った。フジヤマ、ゲイシャから根本的には出ていないと嘆く人もいるが、最近はそこにマンガやアート、スシ等が加わった。
この一首では、蔑されて(蔑すがゆえに美しい、という感覚が人間にはある、特に男に)美しい東洋の輝きは、そのまま黒馬の照りとなって現出し、そのすらりとした脚はスタイリッシュなバーに立ち並ぶ。「踏みたつ」からは、カツカツという蹄の音も聞こえるようで、硬質のうつくしさを際立てる。
字余りも字足らずもなく、きれいに定型に収まった中から、「SUSHI・BAR」のアルファベットが浮きあがり、それはまた「東洋黒馬」の漢字のかたまりと鮮やかな対照をなす。(上句の凝縮感と以降のうたいぶりの差も注目されていい。)
古いレッテルの上にさらにレッテルが貼り重ねられるような文化の受容のされ方。
どんよりとした嘆きが、日本の古来からの詩型に沈む。