友の家の厠へゆくと下駄穿きぬみやこべ遠くわれは来てあり

                              三ヶ島葭子『吾木香』(1921)

 三ヶ島葭子は、ややこしいことがあって、大正9年(1920年)にも、宮城県宮床村の原阿佐緒をたずねている。(三度目のようだ。)

 そのときの歌。

 彼女は直前まで現在の六本木に住んでいた。その思いが、「みやこべ遠く」という直接的な言い方に素直すぎるほどに出ている。使命と決意を帯びた訪問の中の不安な気持ちを隠していない。

 では、なぜそんな素直なのか。

 「厠へゆく」ときの感懐だからではないか。

 今でも、例えば、友人たちとの会食中に、トイレに立つときは(もちろん)一人である。一瞬前まで、大きな声で笑りあったり、愚痴をなぐさめあったりしても、ふと、物理的に離れざるをえない。

 そこで、どんなに親しい人といても、ある程度の緊張をしていたことがわかってしまう。

 特にこの時代のトイレは離れにあって、静けさに囲まれていたはずだ。季節によっては、凍えるような寒さの中をひとりすすんでゆかなくてはならなかっただろう。下駄のひんやりとした感触を得て、ふと、われにかえる、という感覚を得るのもわかる。

 感情のきっかけを的確に提示しているところ、いい歌だと思う。トイレだって秀歌の源なのだ。

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