古屋根に雨ふる駅の小暗さがのどもと深く入りくるなり

松村正直『風のおとうと』(2017年・六花書林)

 

駅には、東京駅のような、建物というよりもはや一つの街であるかと思わせる駅もあり、ほとんど乗降客のいない無人駅もある。ここで歌われている駅は、無人駅といわないまでも、後者に近いような感じである。「古屋根」というから、駅も古いのだろう。「小暗さ」を溜めている。この、喉元へ深く入ってくる「小暗さ」とは何だろうか。

 

投げ入れる人間あれば見えねども空井戸の底に石は増えゆく

中心でありし場所からひときれの切られしピザを食べ始めたり

 

『風のおとうと』にはこのような歌もあって、作者は見えないものの存在に強い関心傾けている。存在を形作るものは〈記憶〉。人間中心的な思考によって紡がれるニュアンスの〈歴史〉とはちょっと違う。『風のおとうと』の作者にとって、外界のモノやコトは、作者の思考や感情を表現するための道具ではない。モノにはモノの〈記憶〉があり、コトにはコトの〈記憶〉があり、それを発見してゆく過程が歌なのだと思わせる歌集である。「空井戸」や「ピザ」には、それぞれ、それ自体の〈記憶〉がある。不思議なことに、読者のわたしは、そのような思考に出会うと、周囲のモノやコトに親しみを覚える。自己を縛っている対立意識から解放されるような気がするのである。

 

掲出歌の、駅の「小暗さ」は、たぶん駅の〈記憶〉だろう。どのように小さくても、もうすでに機能していなくても、駅には駅の〈記憶〉が内包されている。そのような〈記憶〉と接触した感じが「のどもと深く入りくるなり」なのだと思う。

 

1980年代に、赤瀬川原平や南伸坊の路上観察隊という活動があった。もう機能してはいないが、今も路上に残っている痕跡情報を、トマソン物件と称し、収集して〈記憶〉を掘り起こすというものだ。歌集にはそれに通じるところがあると思われた。

 

車輪すべて通過せしのちしずみたる枕木はもとの位置にもどりぬ

 

一見、変哲なく見える存在も、動き、活動し〈記憶〉を内蔵してゆくのである。