薄日さすしろい小皿に今朝もまたUSBを置く静かに

千種創一『砂丘律』(2015年・青磁社)

 

現代人にとっての〈記憶〉は、かつてのそれとは違うものになった気がする。人間に内在するイメージから世界に遍在するイメージになりつつある。一つは、人間ではないものが担う〈記憶〉の領域が拡大していることにあるだろう。〈記憶〉は、人間一人一人の所有ではなく、他の生物や物質と共有するものになってゆく。USBは共有を思わせる顕著な例である。それは、かつては紙に手書きしていた会議録のような〈記録〉ではなく、会議の〈記憶〉という方が相応しい気がする。

 

掲出の歌が、そうと書いてないにもかかわらず、どこかひんやり寂しい感じがするのは、かつての〈記録〉をイメージするためだろうか。「しろい小皿」の淡い光の中に、PCから外されたUSBが、世界から切り離され孤立しているように見える。

 

修辞とは鎧ではない 弓ひけばそのためのきん、そのためのこつ

新市街にアザーンが響きやまなくてすでに記憶のような夕焼け

告げている、砂漠で限りなく淡い虹みたことを、ドア閉めながら

 

作者は卒業ののちアラビアに滞在し、インターネットなどを駆使して作歌したという。青春期の恋が歌われ、「修辞」や「砂漠」が歌われる。作者は「感情を残すということは、それは、とても畏れるべき行為だ」(「あとがき」)という。いうまでもないが〈記憶〉は知的な蓄積だけではない。〈記憶〉への拘りがとてもよくわかる。