染野太朗


カフェラテの泡にたゆたう葉脈をひとくちごとに引きのばしおり

鯨井可菜子「胸郭の螺子」(「現代短歌」2017年2月号)

 


 

 

「胸郭の螺子」は13首からなる。

 

鯨井の歌は、「都市や時代(の瑣事のなか)を生きる」ということをたいへんにあざやかに示すものだと思う。それは「都市」そのものを描くのとも「時代」そのものを描くのともすこしちがう。そこを「生きる」ということを、はっきりと提示してみせる。

 

社会的事件そのものを描いたりその現場に身を投じたりする歌、また、ちょっと俯瞰したところから事件や風俗、モノゴトを(ときに過去と比べながら)描く歌は多い。たとえそういったものを具体的に描いてはいなくても、この時代を生きる人の気分や特徴が結果的に滲んでいるような歌もよく見かける。あるいは、この時代を生きることを「違和感」として提示しているような歌、そこに生きて苦しんでいるような歌(あるいは、苦しんでいるように見えなくても、読みながら読者のほうが苦しくなるような歌)もけっこうあると思う(……ちょっと粗く大きく出てしまった。このあたり、本当は具体的に歌を挙げて説明しなければいけないのだけれども)。

 

鯨井の歌はそのどれともちがうような気がする。

 

「胸郭の螺子」には、

 

胸郭のへんなところにはまりこむ螺子はあなただ 気持ちをいじる
箱の隅に放棄されたるライターのいつだったのか最後の火花

 

と、時代がどうとか技法がどうとかいうことをことさらに言わなくても十分に味わえる歌もあるのだが(もちろん「放棄」という語の選択や、最後にそのライターが点火したときのことを思うというのには、表現や認識上のすごみがあるけれども)、今回は、

 

待合室に低く流れるオルゴールのきゃりーぱみゅぱみゅ秒針と共に
じゃらじゃらと腕いっぱいに絵馬を下げて薄暮を歩む縁切榎(えんきりえのき)
喫茶店の壁に残れる旧き日のホロスコープを今日もまた読む
不動産屋の窓にモールは貼られゆく〈新着物件〉ふちどりながら
メドレーを吹き終えしのちサンタ帽に少し手をやるフルート奏者

※( )内はルビ

 

といった歌について考えたい。まず、対象を本当によく見て、聞いている。とても丁寧だ。また、その仕方も、見聞きする者の認識の個性を前面に押し出すというより、どこを見てなにを聞いているのかそれ自体を問題にしている、という感じがある。その丁寧さが、この人の眼差しのありようと対象の質感を確実に伝えてくる。

 

そしてその眼差しの周囲には現代の都市がある。オルゴールの音で流れるきゃりーぱみゅぱみゅ、絵馬をたくさん吊り下げた「縁切榎」、昭和の感じを残したような喫茶店、街の不動産屋、クリスマスのイベントでサンタ帽をかぶる演奏者。時代の最先端や流行を描いているわけではない。きゃりーぱみゅぱみゅはすでに人気のピークを過ぎているし、「縁切榎」も、もしかしたらこれは東京都板橋区のものだが、「パワースポット」扱いをされた同じようなモノや場所はほかにもたくさんある。このような不動産屋もクリスマスのイベントも珍しくない。けれどもそれらはまぎれもなく現代の、都市の風景の一部だ。これらのものを含む風景のなかに僕たちは暮らしている。ちょっとピークを過ぎたものや昭和の質感を残したものに思いのほか囲まれながら暮らしている。しかも、にもかかわらず、これらの歌は「これが現代だ」とか「今の時代の気分だ」とかいうような言挙げをしていない。生きづらさや、あるいは豊かさをことさらに言い立てていない。殺伐としているわけでも浮かれているわけでもない。批評に短絡しない。俯瞰や分析の視点よりも、対象と向き合うさまのほうが際立つ。それがなぜかと言えば、きゃりーぱみゅぱみゅそのものや縁切榎そのもの、喫茶店そのもの、不動産屋のモールそのものやクリスマスのイベントそのものに歌の眼目があるわけではないからだ。「待合室で秒針の音と共にそれが聞こえてくること(それくらい場が静かであること)」「縁切りを望むたくさんの人がいて、思いを託された榎が夕暮れを歩んでいるように(不気味にもかわいらしくも)見えること」「今日もまたなぜだかそれを読んでしまうこと」「新着物件の間取図がきらびやかに飾りつけられていくこと」「少し手をやる(その動作にその人の人間味や心身のさまがわずかにあらわれている)こと」こそが歌の中心にある。それは、俯瞰してモノゴトを描く視点ではない。俯瞰ではなく、向き合う視点。その結果として、歌の重心は、モノゴトそのものではなく、その質感や、そのモノゴトの含まれる文脈、物語のほうに寄っていく。モノゴトではなく、それらに囲まれて暮らすということのほうが見えてくる。「都市」「時代」を描く歌というより、「都市を生きる」「時代を生きる」を描く歌というのがふさわしいと思う。

 

そのようにしてあらわれた歌から僕は〈リアル〉ということをつよく感じる。

 

今日の一首。いわゆるラテアートが今ことさらに取り上げられるようなことはほとんどないし、この歌はラテアートそのものを詠んでいるのでもない。カフェラテに描かれたものを「たゆたう葉脈」と言って泡の質感とともに表現し、それを少しずつ飲んでいくさまを丁寧に描ききっている。けれどもなおその先に、この時代の都市が見えてくる。カフェラテを飲むこの人物の周囲にあるものまで見えてくる。

 

……都市という〈共同幻想〉が見える、とまで言うのは大げさだろうか。

 

店員に手を引かれたる着ぐるみが段差を降りるまでを見ていつ/鯨井可菜子