平岡直子


前足に遅れまじとてうしろ足けんめいうごく横長の犬

小池光『静物』(砂子屋書房:2000年)


 

これではまるで車だ。あるいは自転車などもそうだけど、たいていの自動車は前輪か後輪かどちらかが駆動していて、もうどちらかは駆動している車輪のうごきに合わせて転がっているだけだ、ということを思い出す。犬が「うごかす」わけではなく、あくまでうしろ足がけんめいに「うごく」というおかしさ、それから「横長の犬」という身も蓋もない描写も、ダックスフントの類を想像はさせるけれど、なんだか印象が角ばっていて機械っぽい。
前足とうしろ足がひとつのまとまりとして統合されないのは、横長なせいで胴体の途中で連絡が途切れて別々の系統になってしまったのだろうか、とかも思うけれど、基本的にはおそらく作者が二足歩行の人間だからだ。前足がある生き物の感覚はわからない。それでもある「けんめい」さを受けとってしまったこと、そこにはしるシンパシーが一匹の犬を二足歩行の生き物×二に分断してしまった。その結果なぜか生き物っぽさ自体から遠ざかっている。そして、この歌には不可解な存在へのよろこびがかすかに感じられる。

 

夕方の散歩に曳かれゆきながらあはれまたたく電飾首輪
墓ふたつ大小のなく寄り合へり秋の稲田のせまりくる中
耳もちてぶら下げしとき家兎(いへうさぎ)あはれあはれ葱のごときしづけさ
あらがねの土を盛りたるプラットホーム立ちてゐるなり帽子の人は

あはれ〈アワレ〉
(名) ①しみじみとした感動。しみじみとした風情や情趣。
②悲哀。哀愁。さびしさ。
③愛情。人情。好意。
(『全訳古語辞典第三版』旺文社)

 

小池光の歌には「あはれ」がある。最近の歌を読むときも『バルサの翼』の鋭さの名残りを探してしまうわたしにもそれはわかる。読者を深く突くわけではなく、斬新な考察が読みとれるでもなく、でも、なんでもないような歌でも常になにか情感があるこの感じは、遠浅の「あはれ」の海に足を浸している。それを成り立たせるのは美しい狭量さだろう。たとえば犬を頑として二足歩行基準でみることで奇妙に乗り物化してしまうような。「見捨てない」という意思は対象をいったん見捨てるから生まれるものだ。小池光の歌はつねに視点と動きがわかりやすいけれど、それは歌のうしろの人間の輪郭を逆照射するためというよりも、視界を狭く取ることでそこからずれていくものを発見させる装置のようにわたしにはみえる。そして、そこで発見されるずれは、歌がなにかを言うためではなく、歌が然るべき場所に足を浸すための方法論なのだと思う。小池光といえば歌意がシンプルにとれない歌に苦言を呈しているのを近年よくみかけるけれど、歌意云々というより、「あはれ」への通路になっていない歌が行き止まりにみえているんでしょう?
だけど、わたしが掲出歌にある種の「あはれ」を感じるとしたら、それは犬の姿の健気さに対してではない。わたしは「縦長」の歌のなかをよこぎる「横長」が気になるし、その歌を「横長」にしてしまう横書きのインターネットにこうしてこの歌を引用することの意味が気になる。横書きになったこの歌のなかに犬の姿を見立てると、前足とうしろ足の配置的には犬は左を向いていることになるけれど、歌は右に進む。犬と歌のその強力なすれ違いによってできる裂け目にしみじみとした風情や情趣を感じる。