染野太朗


友だちが来てテーブルをくっつける 新しいテーブルの大きさ

谷川由里子「カルボナーラ色の月」(「現代短歌」2018年5月号)

 


 

前回、鯨井可菜子の歌について記すなかで「よく見ている」ということを言った。谷川の「カルボナーラ色の月」13首についても最初そのようなことを思ったのだが、「見る」というより「気づく」と言ったほうが近いのだろうなといま読み返して思っている。

 

ここはよく埃がたまる、撮っとくね この世のことに興味があるの
象の鼻も冷えるんだろう珈琲はお湯をたらしてじっくり蒸らす
憧れの電車の名前を、もう一度 はしょらずきみは教えてくれる

 

「その場所によく埃がたまる」のがまさに「この世のこと」であるということ、コーヒーを淹れるドリップケトルの注ぎ口が象の鼻に似ていること、「きみ」の対応が思いのほか丁寧であること、にそれぞれ気づいている……とこのように書くと、わざわざ「気づく」などと言うのは大げさで、むしろ誰もが考えうることを詠んでいるようにも思えるかもしれないが、僕がここで問題にしたいのは、これらの歌の場合、その気づきの背後に、その気づきと対比されるような、あるいはその気づきを促すような、なにか別の経験・物語を想定してもよいのではないか、という点だ。一首目、ある箇所に埃がたまるという瑣事、めんどうな瑣事をわざわざ「この世のこと」と言ってラベリングした上で記録するところに、そういった瑣事以外のことにふりまわされた経験があるような、自分が生きるこの世界(=この世)の範囲外のことに時間をかけなければならなかった経験があるような、そういうなんらかの言外の物語がごくわずかに透けて見えてこないだろうか。わざわざ撮るということが、よく埃がたまるその場所をいつくしむ行為のようにも思えてくる。二首目、ドリップケトルの注ぎ口と象の鼻の形状が似ているということに気づいただけの歌ではない。というよりそれはただの前提だ。そこから、象の鼻も金属の注ぎ口と同じように冷えるのだろうと発想し、しかも歌の要は、冷えるということを打ち消すかのように、熱いお湯で丁寧にコーヒーを淹れることのほうにある。僕はここに、なにかを自分の行為によってあたためよう、いつくしもう、というような意識を感じ取る。そしてその意識の向こうに、あたためられずに冷えたままのなにか、が見えてくるような気がするのだ。三首目、省略されてしまう可能性も想定しながら「教えてくれる」とあるから、これは、相手が勝手にもう一度話しはじめたのではなく、自分からもう一度電車の名前を聞いた、ととらえるのが自然だろう。それで、「相手にとっては煩雑なことかも知れない」と思いながら訊ねているからこそ、あるいは、そのようなこまかいことを訊いて誰かになおざりにされた経験があるからこそ、「はしょらず」というところに価値を見い出し、教えて「くれる」といって相手をたたえているのではないか。そしてやはりこれも相手をいつくしむあり方だと僕は思う。

 

このように、ある気づきに至る理由のようなものや、その気づきに至るこの人の性格・性質といったものが、ごくわずかだけれども、歌からにじみ出ている気がする。一瞬の気づきの裏から、長い時間のうちに培われた(培われてしまった)なにかがしみ出しているように思うのだ。

 

そしてそれは、上であえてくりかえした「いつくしむ」という態度となって〈今ここ〉に表出する。対象はどれも、この人から愛されている。この人は、小さなひとつひとつのことがらにおいて、この「いつくしむ」というポイントを見逃さない、という感じがする。

 

今日の一首。飲み会かなにかであとから人数が増えて、となりの席のテーブルをくっつける。それによって席が広くなる。だれもが経験しうるそのほんの小さなできごとを、その場でその瞬間に、ある気づきとして認知する。初句の「友だち」という語や「くっつける」という語の気負いのない感じやかわいらしい感じを読者として意識し、さらに、この連作を覆う「いつくしむ」という感情をこの一首にも流し込んで読み取るとき、この「新しい大きさ」は、あとからやって来た友だちを「歓迎して受け入れる」ための広さとしてこの人に認識されたのだとはっきり見えてくる。結句の「大きさ」という体言止めはオーソドックスに余韻を引き寄せるが、そのなかにこそ、広さをながく見つめ、かみしめる眼差しが浮き上がってくる。

 

文体(口調)や気づきの対象に、一見すると幼さが感じ取れるけれど、むしろそれが歌自体のかろやかさになり、そのかろやかさとの対比で、その裏ににじむものが見えてくるのだと思う。

 

ちょっと余計なことなのだが付け加えておく。これは本当に僕の主観というか、恣意的な読みでしかない気もするのだけれども、谷川の歌を読むといつも、僕はその背後に断念や諦めをつよく感じてしまう。断念や諦めを経たからこそ得られた(得てしまった)澄んだなにかが、あかるい口調の向こうに見えてくる、という感じがいつもする。

 

信号を待っている子のリュックには2匹の熊が口づけていた
きれいな カルボナーラ色の月 きみがいなくなったとき食べたいな/谷川由里子